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第232号  陶芸の神様

東京勤務を機に、昨年の秋から週末に陶芸を再開した。
 まとまった時間が確保できるようになったことと、無心に何かを作りたいという創作意欲が再開を決定付けた。轆轤(ろくろ)を使うよりも、手捻りの技法の方が自分の性に合っている。足掛け何年もやっているが、たとえ満足できる作品が出来上がらなくても、制作のプロセスと自分の力ではどうにもならないところが好きである。どんなに粘土の調合や器の成形、釉薬(ゆうやく)の掛け具合が上手くいっても、最後の焼成は全て火=自然の力に委ねる。「諦念(ていねん*)」と言っては大げさであるが、そのような心境になれることが気に入っている。

 これは今の生活とは対極にあるけれど、火(自然)の神さまの前に、自分の力の及ばないことを全て受け入れると言うことである。何か悪いことをしたり、考えたりすると神さまの怒りを買って焼き上がりが上手くいかなくなるのではないかと、日々の行動にも一定の規制をかけたりする。何だか可笑しいけれど、自然体で謙虚になっている自分を発見したりすることがある。

 最近は特に四季折々の生活を彩る行事や住んでいる地域の昔ながらの風習にも敏感になり、真似事をするだけでも穏やかな気持ちになれる。どんな神さまであれ、神さまに見守られながら何かいいことをすれば、きっと作品もいい具合に焼き上がるのではないかと無意識のうちに思っているのであろう。こうして、今の生活の規範が出来ている。

 途上国で生活をすれば、その国、地域のいろんな年中行事や風俗・風習に出くわし、参加もする。私たちは日本文化、と言うよりも生まれ育った地域の文化というフィルターを通して、それを理解しようと努める。最初は、アレコレと必死に比較文化を繰り返しながら理解に努めるのだけれど、一巡して2年目、3年目になると自然とそれを受入れ、生活のリズムができる。そうなったらしめたもの。自分のアイデンティティーを形成している文化が大切であると同様に、相手国、地域の文化も大切に思い、それを受入れ、リスペクトしていることの証であるからである。相互理解とはこうして生まれるものであろう。

 国を問わず、地域に残る土着的な行事にはその土地に住む人々が信じる神さま、特定の宗教であるかどうかを問わず、に関係しているように思う。神さまのお陰で生きていること自体が守られ、神さまとの約束をきちんと果たせばきっといいことがあると、たとえ無意識であっても、信じているのである。地域の人々の深い思いが込められた行事には愛おしさが込み上げてくる。

陶芸の神さまがいるのかどうかは知らないけれど、日々謙虚に何かいいことをおこなっていれば、どんな神さまであれ、どこかの神さまが見ていてくれて、器の焼成に力を与えてくれると信じながら、今週末も陶芸にいそしむ生活が続く…。 (N.K.)

*諦念:道理を悟る心、真理を諦観する心。

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