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社会起業家として環境ビジネスで国際貢献 アフリカでの新たな挑戦 ~社会貢献活動におけるキャリア(環境編)⑤~

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【プロフィール】
ドイツ留学(1997-2004)中、国際連合環境計画本部にて職業訓練。2004年、ドイツ・マールブルク大学生物学修士号取得後、ドイツ・ギーセン大学学際研究センターにて調査研究。2004年から約2年間、国際連合教育科学文化機関自然科学局勤務。人間と生物圏計画にて大型類人猿保全計画を担当。2006年から4年余り、イー・アール・エム日本株式会社社勤務。日本の中央省庁の請負調査業務の企画・業務実施責任者を務め、環境影響評価、土壌地下水汚染対策、環境監査、気候変動関連業務等を担当。20111月にEnvironmental Technology Africa株式会社をケニアで設立。廃棄物処理、エネルギー事業、環境コンサルティング、社会貢献事業を提供している。
  中学生のときテレビで見た飢餓の映像に衝撃を受け、貧困問題や国際貢献の分野への関心が芽生えたという渋井直人さん。子供ながらに(財)日本国際飢餓対策機構などを通じて募金をしていたが、中学・高校と自分の考えや疑問を周囲の方々に相談する中で、環境問題を通して社会の不平等を解決する仕事に携わりたいという思いが強くなっていった。
 環境問題について先駆的な取り組みを行っているドイツの大学で生物多様性や環境科学について学んだ後、UNEPインターンシップやUNESCOでの勤務を経て、外資系環境コンサルティング企業に転職した。そして、いま新たなビジネスを始めることで、かねてより取り組みたいと考えていた環境分野における国際貢献への道を歩もうとしている。

 
 環境分野における野口英世になりたい
国際貢献に関心をもったのは、子供の頃に見たテレビの映像がきっかけでした。そこには学校に行くこともできず、空腹を抱えたアフリカの子供たちが映し出されていました。
 
中学生の渋井さんの意識の中で環境破壊や貧困が社会問題として急激に膨らみ始めた。高校生になる頃には「環境保護を学ぶために留学する」という決意を固める。
「この地球には、自分と同じ日時に生まれたとしても、衛生的な生活環境も教育の機会や職業選択の自由もない、自分とは全く違う環境で生きていかざるを得ない人がいる。一生抜け出せないような貧困がある反面、豊かな国に生まれ、進学、語学、スポーツ、音楽、何にでも理解を示してくれる家族を持った自分がいる。自分は特に善行をしたわけではないのに不自由なく暮らしているが、何か悪事を働いたわけでもない人が生まれながらに恵まれない環境に置かれている。」中学生の頃はそんな社会の不公平さに漠然とした疑問を抱いていました。

 高校生になり、恩師の指導も頂き、UNEP(国際連合環境計画)の活動や、途上国における環境問題の深刻化に関心を持つようになりました。日本で明治から昭和にかけて起きた大規模な環境汚染と同様の事象が、今、途上国でも起きていて、今後も何十億という人々に深刻な健康被害を及ぼし得ることを知りました。そこで「そうだ、環境分野における野口英世になりたい!」と思ったのです。
 
しかし、残念ながら90年代半ばの日本では、環境問題を考える上で欠かせないと思われた環境科学・環境保護のカリキュラムが充実している大学は見つかりませんでした。そこで海外も視野に入れて探したところ、ドイツやアメリカの大学に興味を惹かれました。実際に下見に行ったいくつかのアメリカ西海岸の大学のカリキュラムはある程度充実していましたが、学際的な雰囲気に欠け、加えて一般市民の環境意識や環境NGOの理念などにも違和感を覚えました。

 一方ドイツは、子供への環境教育と物事の本質を考えるドイツ気質が混じっているからか、環境意識が高い人が多く、環境に配慮した暮らし方が根付き、地元NGOも歴史的な経験に基づいた堅実な活動を行っていました。ここで環境問題の根底にあるものや人々の考え方、環境保護の手法も学びたいと考え、留学先をドイツに決めました。結果的に8年間のドイツ生活の中で環境分野全般において必要だと私が思う知見・感覚を得られた気がします。


アカデミズム—科学者としての国際貢献への道を考える
高校卒業当時の日本とドイツの大学間における協定では、制度の異なるドイツの大学に編入するには日本の大学入試に合格し、1年以上学籍を置く必要がありました。そこで、まず東京の大学で1年間環境科学を学び、975月に休学。その後、ドイツのゲッティンゲン大学へ留学し、20009月生物学課程修了試験に合格。翌月、マールブルク大学の生物学部自然保護学科に学籍を移し、2004年春まで自然保護、環境科学の科目を履修し、生物多様性の研究に関する論文を執筆しました。修了試験を全て終えた頃からの半年間は、ギーセン大学で論文の調査結果を再分析し、学会誌及びその他の出版物への掲載論文の作成、学会での論文発表にあたりました。
 
原点であった「環境問題の解決」に回帰して考えることを促したのは、「週40時間・6カ月以上」というフルタイムのインターン実務経験だった。
当時のマールブルク大学の自然保護学科のカリキュラムは、学外におけるフルタイムの職業研修(インターンシップ)を学生に義務付けていました。当時の私は、博士課程に進み科学者の道を目指す中で、はたして国際貢献ができるのかとの疑問を持っていました。他の組織・団体での仕事に生きがいを感じることもあるのかも知れないとも考えており、インターンシップは自分の適性を確認するいい機会となりました。

 インターンとして私を受け入れてくれた団体は、ドイツ最大規模の環境NGOBUND」、ドナウ川上流自然保護センター日本生態系協会で、多岐にわたる経験をさせてもらえました。その後、UNEP本部のインターンにも採用され、大型類人猿保全計画に携わり、約4カ月間、ナイロビに滞在しました。会議出席者との日程調整、会議議事録作成補助、コピーライト取得申請、他の国連プログラムとの共同事業の調整など、幅広い業務を担当し、理解力のある上司と同僚に恵まれ充実していた反面、自分の仕事の質に満足できず、週末も含め週80時間位は担当業務に没頭していました。

 マールブルク大学を卒業後、当時の上司が、根性だけは認めてくれたのか、UNEPとともに大型類人猿保全計画事務局を運営していたパリのUNESCO(国連教育科学文化機関)本部に私を推薦してくれて、UNESCOで働けることになりました。その頃の私は、研究ではなく、実際に環境保護に携われる仕事に就きたいと思うようになっていました。


ジェネラリストになることへの危惧から、民間企業に転職する
学究の場ではなく、実際に環境保護を目的とした仕事に就くことができた。その喜びの反面、業務では環境の専門性はそれ程必要とされていなかった。
2004年秋、UNESCO科学局で始まった大型類人猿保全計画事務局におけるコンサルタント業務は、ナイロビで担当していた業務や大型類人猿保全計画日本委員会の支援戦略作成、広報記事などの執筆といったオフィスワークがある反面、愛知万博国連館における展示場及びイベント運営の総括や、コンゴ民主共和国で開催された大型類人猿保全計画国際会議のための調整・現場対応といった業務もあり、やりがいを感じていました。

 しかし、業務には環境の専門知識ではなく、事務運営や交渉能力のほうが重要であったため、UNESCOでの仕事も約2年が過ぎた頃、専門性の高い職種への転職を考えました。転職先としてJICAや国連職員となる道を希望していた時期もありましたが、日本人でありながら日本での業務経験がなかったことと、自分の将来のキャリアには民間企業での業務経験は欠かせないと考えていたため、この頃は日本の民間企業への転職を最も強く希望していました。
 
そして2006年秋、業務内容の専門性と広さに興味を惹かれた外資系環境コンサルティング会社イー・アール・エム日本株式会社(以下ERM)に応募したところ、短期間で採用が決定しました。ERMは環境影響評価、土壌地下水汚染対策、環境監査、気候変動関連業務など、環境分野における多様な業務を提供しており、多岐にわたる環境問題の解決に関われると考えました。

 実際、入社後は営業をはじめ、会社の提供するほぼ全分野にわたる業務に携わり、多様な経験と専門性を身につけることができました。また、主に日本の中央省庁の請負調査業務を任され、新規開拓や企画書作成、業務実施責任者を務めました。

 中東・西アジア、北アフリカに対する日本の環境ODA関連調査、東アジア諸国の国家計画における温室効果ガス削減などの政策分析、東アジアのカーボンフットプリント促進業務、先進国の環境影響評価法や土壌汚染対策法調査などを行いました。法規制調査の結果は、関連する研究会や中央環境審議会などの参考資料として利用されるなど、大変刺激的な業務でした。


社会的な問題意識と仕事に対する更なる達成感の追求から、起業に踏み切る
幼少期に感じた「貧困と環境破壊」問題。現在も渋井さんの心の中にあるその衝撃や問題意識。社会的な課題とビジネスの融合を模索し、ケニアで起業。
民間企業を辞め、アフリカでの起業を決心するに至ったのは、貧困と環境問題に対して何か貢献をしたいとのかねてからの想いを実現する時期がきたと感じたためです。ケニアを選んだのは、私が、生まれて初めて降り立った途上国がケニアだったことが少なからず影響していると思います。

 UNEPのインターン時代、4カ月間現場で手伝いをしたNGOエルフボブの活動では、本職のUNEPの研修やそれまでの研究では得られなかった達成感、お金の利用価値を実感できました。現地の団体・個人から提出された企画書から、持続的・波及的な効果が期待できる案件を選定し、受け取った募金総額に対する運営諸経費の割合を1%未満にするという方針の徹底した団体でした。

 その後、ケニアを離れてからも、ドイツ、フランス、日本で募金仲間を増やし、募金と企画書の選定では継続して協力しましたが、運営諸経費を削るためスタッフ全員がボランティアであったため、5年間の活動期間の後に現場で積極的に動く人材が不足し、活動を終了。この経験から、組織的な基盤の強さなしに、充実感だけでは組織は長期的に機能しないということを学び、ビジネスとして成り立つ社会起業を実現したいと考えるようになりました。
 
そして、エルフボブが活動を終えた2008年末頃から、東アフリカ社会で何が環境ビジネスとして成立するかを考えるようになりました。2009年の初め、UNEP時代のカナダ人の上司から誘われたこともあり、東アフリカ3カ国を2週間ほどかけて調査した結果、「再生可能エネルギー、カーボンクレジット、廃棄物処理はいけるかも知れない」と考えるに至りました。

 その後、東アフリカの法規制を独自で研究したところ、再生可能エネルギー促進制度やプラスチック包装材の制限、産業廃棄物焼却に関する規制など、産業界に多大な影響を与える先進的な環境政策が足早に検討・導入されていることが分かってきました。

 また、経済成長率が二桁近い伸びを見せることもある反面、銀行の融資にかかる利子が15%以上で、設備投資を進められない民間企業が法規制の対応に遅れている実態も分かり、廃棄物処理事業を競合他社から差別化する見通しを得ました。

 そこで、UNEP時代に廃棄物処理に関わっていた経験とエジプト環境庁などを訪問し廃棄物処理などの環境ODA政策分析を行った知見を用いて、廃棄物処理事業の起業を計画し始めました。事業化を念頭に、東アフリカの多様な廃棄物業者を比較し、有力な顧客への人脈、許認可を取得できる行政との人脈などを持っている会社などを選定し、交渉を始めました。


アフリカで強烈な輝きを放つ日本人。
  彼らから得たパワーをこれからのビジネスの原動力に。
しかしながら、この頃の私は、アフリカでのビジネスに不安も抱いていました。そんな折、UNDP(国連開発計画)ルワンダオフィス廃棄物処理担当の三戸氏から度々アフリカでのビジネスの現実に関してお話をいただきました。三戸氏は私財を投じてブルドーザーとバック・フォーの免許を取得し、キガリ市の廃棄物処理に尽力。その活動報告を見て、自身の不安をかき消すくらいの事業計画を立ててみようと思えるようになりました。

 もう一人影響を受けたのは、オーガニック・ソリューションズ・ルワンダの佐藤社長(元ケニアンナッツ社長)でした。初対面の若輩者である私に対して起業家仲間として競争していこうと話されました。今でも佐藤社長からのお話の数々を思い出すと不思議な力がわいてきます。「相談をしたいという若い社会起業家はいつでも来なさい」という佐藤社長の寛大さも忘れられません。
 

多くの先輩方や友人に助けられ、試行錯誤を重ねた末、廃棄物処理、エネルギー事業、環境コンサルティング、社会貢献事業などに関する業務を提供するEnvironmental Technology AfricaETA)社をケニアで設立しました。
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 また、近いうちにルワンダ最大手の廃棄物処理会社COPEDと段ボールや紙のリサイクルなどに特化した会社を設立する予定です。
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 事業を通して社会的な課題への解決に直接的に関わり、現地の雇用を促進し地域に貢献することを長期的な目標としています。時間がかかっても、簡単には諦めないという不屈の信念を持ちつつ、最終的には現地のパートナーが、この社会に必要とされる会社を経営していくことに役立ちたいと考えています。

本インタビューは、「ソーシャルキャリアはどうつくる」で公開していた内容と同一です。