【前編】

 今回お話を伺ったのは、JICA専門家の経験をお持ちの丹羽 明子(にわ・あきこ)さん。彼女は、現在中学生になる2人の息子の母でもあり、長期専門家として2度の派遣の際には、夫と子供を帯同したというエピソードをお持ちです。
 結婚、そして2度の出産、育児というライフイベントに遭遇しながら、キャリアをどのように選択し、どのように乗り越えてきたのでしょうか。

【丹羽さんプロフィール】

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 薬剤師として勤務後、1996年、30歳の時に青年海外協力隊に参加。帰国後は医療分野の開発コンサルティング企業に勤務。2000年末、第1子の出産を機に同社を退職するが、翌年、翌々年には同社に所属中に派遣された縁から、「イエメン共和国 結核対策プロジェクト(Ⅲ)」に短期専門家として参加。2002年に第2子を出産。
 2006年と2010年には、JICA長期専門家として2度の派遣を経験。現在に至る。

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 始まりは、アフリカの為に"何かしたい"、という漠然とした思い
 開発途上国、特にアフリカ地域に対して興味を持つようになったきっかけは、エチオピア飢饉の話題がテレビで取り上げられるようになったことでした。中高生の頃のことと記憶しています。自分で文献などからも調べ、アフリカ地域のために"何か"したいな、と思うようになりました。とはいえ、インターネットなども普及していた時代ではなかったので、具体的にどう関わることができるか、と踏み込んで考えていた訳ではありません。ただ、大学の専攻は薬学部でしたが、その頃にも青年海外協力隊の説明会に参加したことがありましたし、頭の片隅で、いつか何らかの形で関わりたい、という思いがずっとあったように思います。
 大学を卒業する頃に、身内が相次いで体調を崩したため、数年間、就職せず看病や実家の家事をしていた時期がありました。この時に「自分はやはり、社会に出て仕事をしていたい」「どうせなら、以前から興味があった国際協力に関連する仕事がしたい」と強く感じていました。そのうえで、何の知識も経験も無い今の自分では国際協力の分野で貢献できないだろう、まずは既に取得していた資格を活かして薬剤師の仕事に専念し、いずれ国際協力の道に進むために実務経験をしっかり積もう、と考えました。
 5年弱の勤務を経て、病院勤務の薬剤師の仕事というものを一通り学べたという実感があり、青年海外協力隊への参加を決意しました。3年間のマラウイ共和国への派遣中は、挫折も苦労も勿論味わいましたが、それ以上にやりがいがありました。途上国では、薬や医療といったものへの理解が、病院に勤務する同僚においてすらあまり進んでいない状況ですので、同僚や患者さんから「なんで?」「何のために?」といった疑問をぶつけられる場面が非常に多いのです。そんな中で、上からの押しつけではなく、信頼できる同僚と一緒に、相手に寄り添って一つ一つ説明していく、といった経験は、学ぶことも多く、また、達成感も大きく、「やはり自分がやりたかったのはこういう仕事だ」と実感しました。そして、今後もアフリカ地域に「関わり続けたい」と強く思うようになりました。

 充実した日々と、突然の転換期。「周囲に恵まれて」乗り越えた経験
 帰国後、国際協力に関わり続ける道を選び、開発コンサルティング企業に就職しました。これ以降の私のキャリアを通じて言えることですが、安定性を考えると、病院勤務や薬局勤務の薬剤師の仕事に戻る、という選択肢もあったのかもしれません。が、国際協力の仕事を続けられるチャンスがあるうちは、と現在まで選択し続けてきています。
 プライベートでは、協力隊時代に同じく隊員としてマラウイに派遣されて出会った主人と結婚しました。協力隊経験者ということで、仕事への理解は得やすいパートナーであったと思います。
 公私ともに充実していた頃、イエメン共和国の結核対策プロジェクトに参加できる機会があり、私自身の経歴を活かせるプロジェクトだと、自ら手を挙げました。情勢不安の中東に女性を派遣することに消極的であったことなどもあり、会社から派遣を強く反対されてしまったのですが、根気強く主張し続け、派遣決定に至りました。そんな中で、派遣直前に第1子の妊娠が発覚。非常に悩みましたが、自分自身が強く派遣を望んだ仕事を諦めきれず、会社と相談の上、そのプロジェクトのリーダーに相談することを決めました。大変ありがたいことに、本人の強い希望があるならば、と、「医師が派遣に関して問題ないと判断する」旨の証明書を提示することを条件に、参加を許可していただきました。こういった、私自身の希望に対する周囲の理解と後押しがあったことは、本当に恵まれていた点だと思います。

 出産を機に会社を退職しましたので、産後のイエメンへの派遣はフリーランスとしての参加でした。開発コンサルティング企業勤務時に派遣された縁で、プロジェクト側から継続的に年1回程度来てもらいたい、と言っていただいたのです。2度目、フリーランスとしては初めてのイエメン派遣は、長男がまだ4カ月の頃でした。当然ながら乳離れも進んでいない時期で、可愛い子供と離れることに迷いはありましたが、一方で、どうしても行きたい、という思いを捨てきれずにいました。当時、自分の母は既に亡くなっていましたが、身内、特に妹からはとても強い反対に会いました。すると、その様子を聞いていた主人の母から、1カ月弱ならば行ってらっしゃい、と言ってもらい、子供を託して参加することになりました。仕事に没頭し、充実した3週間から帰国すると、長男からは「この人誰だろう」というような反応があり、寂しい思いもしました。
 3度目のイエメン派遣は、長男が1歳、さらに第2子妊娠中という状況でしたが、同じように主人の母のサポートを得て1カ月弱、参加しました。
 専業主婦であった主人の母からすると、当時の私の決断はとんでもないものだったでしょうし、多少なりとも思うところはあったのではと思います。しかし一方で、同じ女性として応援したい、という気持ちも持ってくれていたように感じています。何も言わずに送り出してくれたことをとても感謝しています。

 仕事への復帰、長期専門家への挑戦
 子供が小さいうちに2度、短期派遣を経験し、また、他にも短期のアルバイト等をしていましたが、やはり数年間は育児を中心とした生活を送りました。育児が落ち着いてきた頃、そろそろ仕事に復帰したいと思い、産前、勤務していた開発コンサルティング企業に最初はパート勤務から、その後正式に再採用していただき、子供を保育園に預けて働き始めました。並行して、長期の専門家の仕事を希望して案件も探し始めました。日本での業務や短期派遣にもやりがいはありましたが、協力隊の経験から、やはり長期で途上国に生活の拠点を置きながら働くことへの希望は持ち続けていました。協力隊時代や短期派遣を通じて、お子様を含む家族連れの開発援助関係者を目にする機会がありましたので、家族帯同での途上国への長期派遣については、イメージもできていましたし、いつか自分自身も実現したいという憧れのようなものもありました。
 そんな中、ウガンダでの医療器材保守管理プロジェクトの業務調整員のポストで公募がありました。やはり自分の実家からは応募自体を反対されてしまいましたが、自分の経歴を活かせる仕事が目の前にあるということ、同じようなチャンスが今後あるとは限らないこと、そして何より主人が応募を後押ししてくれたことで、応募を決めました。主人が応援してくれたのは、一つには、結婚後、「マラウイは楽しかったよね」「いつか家族で、長期でアフリカに行きたいよね」と伝え続けたことが功を奏したのではと思っています。
 また、「応募するからには、受かったら絶対に行く」と宣言をしました。主人も協力隊経験者ということもあり、また、同じく専門家への挑戦を考えていたこともあり、希望すれば誰でも行けるという訳ではないことを良く理解していましたので、この宣言については前向きに受け止めてもらうことができました。
 但し、いざ派遣が決まり、家族で行こう!と伝えると、やはり主人の反応はやや消極的でした。主人には主人の日本での仕事があり、「帯同する=仕事を辞める」ということへの抵抗感があったようで、子供を日本に残して私だけ行くか、子供だけを帯同して主人を残していく、ということも提案されました。しかし、可愛い盛りの子供と離れるということにもやはり抵抗があったようで、最終的には半ば泣き落としのような形で、ついてきてもらうことになりました。

 ウガンダへ、家族4人で過ごした3年間
 先にお話しした通り、マラウイでは家族帯同の開発援助関係者を見る機会がありましたし、それは主人も同様でしたので、夫婦ともに赴任後の生活についてのイメージは出来ていました。帯同を決めてからは基本的に、「なるようになる」の精神で臨みました。
 ウガンダでは、子供たちはプレスクール(インターナショナルスクール)に通わせました。言葉の壁は当然ありましたが、途上国のインターナショナルスクールでは、基本的に「英語が喋れない子も含め、いろんな国の子」に慣れていて、言葉が通じない子を仲間として受け入れる空気があるんです。なので、帯同を考えている方には心配しすぎなくても大丈夫、ということを伝えたいです。当時子供たちは3歳と5歳。彼らの順応力にも助けられたと思います。

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(ウガンダにて。丹羽さんのお二人のお子さん)

 主人には基本的に家庭で子供のサポートをすることに専念してもらいました。私自身が仕事をしている間は「母」としての自分をあまり周囲に見せたくない、と考えていましたので、その分、仕事がオフの日は母親に戻って子供たちとの時間にあてるようにして、主人は現地の協力隊員の方たちや開発援助関係者たちと交流を深めるなど、息抜きできる時間を持ってもらいました。また、現地の日本人同士で集まり、ホームパーティをする機会などもあったのですが、その歓待も、主人が担当してくれました。本人のマラウイでの協力隊経験や、アフリカ自体が好きという適性もあったかと思いますが、主人なりにウガンダでの生活を前向きに過ごそうと工夫をしていたように見えます。やはり、男性でありながら働いていない、という状況に、同じ男性からの視線が気になることもあったと思いますし、葛藤もあったと思います。もし主人から「帰国したい」と言われたら、帰国してもらおうという思いはありましたが、3年間、一度も「帰国したい」という言葉を聞くことはありませんでした。最後まで甘えた形になり、後ろめたさもありますが、とにかく感謝しています。
 ウガンダで一番怖い思いをしたのが、長男が、マラリア、低血吸虫(ビルハルツ)、アメーバ赤痢を一度に併発した時のことです。1カ月ほど、自宅療養しながら飲食できない状態が続きました。さらに1週間続くようなら日本に帰国させよう、と思っていた頃に回復してくれて安堵しましたが、医療事情が日本ほど整っていない途上国での生活の怖さ、というものを改めて実感した出来事でした。この期間も、仕事を早めに切り上げて帰るということはしましたが、メインで看病に当たってくれたのは主人でした。
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(ウガンダにて、休日に訪れた川べりの観光地)

後編に続く