保さんは、2016年3月13日に開催したJICA国際協力人材部主催の2015年度第4回『国際協力の分野における「ワークライフバランス」ワークショップ』にて講演いただきました。今回は、ワークショップでは語りきれなかった現在のお仕事やお子さんに対する思いなどについてもご紹介します。

【プロフィール】
 保 希未子(たもつ きみこ)さん

 国際基督教大学(社会科学)在学中からベンチャー企業に勤務、コンサルティングやマーケティング業務担当を経て、2011年コンサルティング企業入社、公共インフラプロジェクトに参画。産休休暇を機に自らのWLBを再考し大学院進学を決める。2014年同社退職後、東京大学大学院(国際協力学)修士課程進学。研究テーマは政府開発援助の事業評価。国際協力におけるキャリア形成と育児の両立に悩むが、開発コンサルタントの道を選び、同年JICAインターンシップ・プログラム(コンサルタント型)で八千代エンジニヤリング㈱のソロモン諸島国ホニアラ市無収水削減プロジェクトでの業務を経験、2016年2月より現職。15歳/3歳の男児の母。

これまでのキャリア ~国際協力に興味はあったけれど…
 私は八千代エンジニヤリング㈱にて開発コンサルタントとして勤務する傍ら、東京大学大学院にて国際協力学を研究し、今年15歳になる中学3年生と3歳の保育園児二人の子供を持つ母でもあり、どれか一つをとっても「大変そう」な、三つのロールを担っています。
 さて、私が最初に国際協力に興味を持ったのは、小学生の時に起こった旧ソビエト連邦崩壊の報道でした。当時、『ソフィーの世界』という哲学本を読み、哲学や思想史に興味を持ち始めていた私は、前年のイラク軍のクゥエート侵攻により国連軍及び多国籍軍が派遣された湾岸戦争などの流れを受け、「人の意識が国という形をつくる、そしてそれは時として崩壊するし、人を傷つける」という私にとっての「国家」という認識に至りました。また、この時の認識は後の「国際社会」というものを理解する一助となったと思っています。その後、中学1年生の夏に私の住んでいた地域が渇水になり給水制限があったことから、恒常的に水が無い人たちは大変だろうなと考え、もともと興味のあった「国際」と「仕事」を結び付けて考えるようになりました。しかしながら、私は自分に自信がなく、「私になんて国際協力は無理だ」と何の根拠もなく思い続け、マーケティングや事業戦略立案、国内公共インフラなどの業務に従事し、いつか井戸を掘りに途上国に行こうと思い続けるまま結婚し、子供を出産しました。

大学院への進学
 結婚後、主人の連れ子である当時小学4年生の長男に私は、「将来やりたいことをやるために、今日何をしたらいいか考えて生活しなさい」と言い続けていました。それは私のように自信のないことを理由に夢を諦めて欲しくなかったからです。私は夢を諦めた分、他者に対して批判的になることで自らを相対化して納得させようとしていました。
 しかし、彼に言い続けることで、私自身も自分は何がやりたいのかを再考し、次男の出産を機に自らのすべきことを認識しました。分娩台に上がってから約24時間かけて出産し、出てきた息子は息をしていなかったため、すぐに新生児集中治療室(NICU)に運ばれました。次はどんな状態で、いつ会えるか分からない、ということでした。私は分娩台で何を思うこともなく、寝ることも出来ず、ぼんやりとしていました。30分ほど経ったころでしょうか、看護師さんが「お母さん、赤ちゃんが元気になってもうNICUから出るので個室に行ってくださいね」と分娩室に来ました。私は彼の生命力に驚き、そして思いました。「もう、自分の為に生きるのは止めて、次世代の子供たちのために、息子たちのために、人生をささげよう。私の自信やプライドなんかどうでもいい」と。そして、枕元に置いていた「国際協力学」という高木保興先生が東京大学出版会から出版された参考書を手に取り、大学院進学に向けた勉強を始めました、出産後1時間足らずのことでした。
 周囲から見ると明らかにおかしな方向を向いていたようで、「お母さん、もう自分のことはいいから息子さんの為に人生を生きましょうよ」と諭されましたが、「いえ、私は子供に平和な世界を残すために、むしろ子供の為に今勉強しているのです」と言い張りました。周囲に隠れて布団にライトを持ち込み、蛍雪の功さながらに勉強しました。事前に願書は提出していたものの、産後ひと月強での試験で受かるとは私も周囲も思っていなかったので、好きにさせてくれたのでしょう。結果発表当日も落ちているだろうと発表のことは忘れて、親しい知人たちと出産記念のお祝いをしていました。ちょうどそのタイミングで家から「東大から手紙が来ているよ」と連絡をもらい、合格していたのを知りました。
 進学当初は社会意思決定論のコンテクストでインフラの産業構造分析と開発協力について研究するつもりでした。しかしながら、修士1年次にJICA国際協力人材部で実施しているコンサルタント常駐型インターンシップに参加し、開発協力の現場を見たこと、同年に受講した東京大学東洋文化研究所の佐藤仁教授の「開発研究」の授業に感銘を受け、インフラに範囲を限定せず、包括的かつ政策的な視点から開発援助を研究したいと思い、開発援助における事後評価を研究テーマに据えました。
 インターンシップでは現在勤務している八千代エンジニヤリング㈱のソロモン諸島国の無収水削減プロジェクトに参画し、実務経験を活かして、顧客折衝の改善などに重点を置き、水道公社に対する改善提案などの内部要因分析と、並行してODAのソロモン諸島国へ与える影響などを経済学的視点から統計学を交えた外部要因分析をしました。実践の機会を与えてくださり、指導してくださったメンバーとひと月を共にし、私は「この会社で働きたいな」と思うようになりました。きっかけは、小学校での環境教育用にポスターを作っていた時に、総括が「保さん、楽しそうだねぇ、仕事は楽しくないといかんねぇ」と仰っていたことです。国際協力の現場は確かにハードです。どんなに仲のいい人々とでも、外出も制限されているような土地でずっと行動を共にするのは辛く、だんだんと人の悪いところばかりが目につくようになります。加えて、国際協力分野は開発課題が前面に出ることが多く、「仕事を楽しくやるのは不謹慎ではないか、私も辛い思いをしなければならないのではないか」と思っていました。けれど、そんな総括の一言から、周囲に目を向けてみると、途上国の人々も、その日の生活を楽しんでいました。その一言で私の中での「途上国」という捉え方が大きく変化しました。また、そういった方が管理職をされている会社はきっと働きやすいに違いない、と思いました。前職で、早朝から日をまたいで帰宅する仕事をこなし、仕事の楽しさを忘れていた私にとって、その一言は入社を決める言葉となりました。
 理論という点では、大学院で勉強したことは今後役に立つと思っています。アフリカ出張ではサックス・イースタリー論※が眼前で展開されていることに愕然としましたし、そういった理論的な観点から実際に開発課題を捉える事は、今後の課題解決に向けて、新たな視点からアプローチできるのではないかと考えるからです。現在、開発コンサルタントは技術専門の方が多く、社会開発系も開発経済や都市開発論を学ばれた方が多いです。そういった中で開発論と言った、課題に対するアプローチとして人文科学や社会学的理論を採用し、その実践の中で得た気付きを体系化して論理構築していくことが今後の私のキャリアにおいて重要であると考えています。
 ※サックス・イースタリー論:開発援助のあり方について、貧困撲滅を訴えビッグプッシュ(大量の資金投入)が必要とするコロンビア大学のジェフリー・サックス教授とこれまで長年アフリカに開発援助資金が投入されたにもかかわらず貧困からの脱却も経済成長もなかったと指摘するニューヨーク大学のビル・イースタリー教授との論争。

現在の業務
 入社して半年経った現在ですが、主に業務調整として、JICA専門家として派遣される皆さんのサポートをしています。業務調整の仕事は多岐に渡り、総括のサポートをしていく仕事です(別名、影の総括と呼ばれているらしいです(笑))。解らないことが多く、迷惑をかけ通しですが、なんとか周囲の方にご理解、ご協力とご指導を頂き仕事をしています。
 また、業務調整以外では主担当として派遣されたナイジェリアで無償資金協力で建設した小学校の維持管理についてソフトコンポーネント(技術指導を行うソフト的支援)の保守設計を行いました。引渡し前の最終検査に同行し、教室ごとに机と椅子の配置図を書いて番号を振り、日本の国旗のシールが張られているか確認するため約2万脚の椅子と机を一つ一つ見て回りました。最初は現地の方も「日本人がなんか変なことをはじめた」と対岸の火事のように見ていましたが、最後は一緒に腰をかがめながら机をチェックしてくれました。現地の方に自主的に動いていただくのは難しいと聞いていたのですが、帰国のため現地を離れて都市部に戻った後、彼が自ら接着剤を購入し、私の手書きの図面を見ながら、シールを補強してくれていたと聞き、涙がこぼれました。
 様々な価値観を有する私たちが一つのものを作り、相手の思いを聞き入れ行動に移すこと、一つの目標に向かう事、私は自分の仕事が偽善ではないかと常に疑っているので、そうやって心が通じ合う瞬間にこそこの仕事のやりがいがあると思っています。そして子供たちが新しい校舎に座った時のすがすがしい顔を私は忘れません。

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(日本が建設したナイジェリアの小学校)
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(ナイジェリアの小学校にて)
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(小学校の生徒の家にて)

育児と仕事との両立
 現在勤務する会社の国際事業本部では、女性技術者で子供がいるのは私だけなので、社内にロールモデルがいません。戸惑うことも多いですし、制度の運用面について相談することもあります。すべてが受け入れられるわけではありませんし、逃げ出したくなることはしょっちゅうです。けれど、マクロ的視点からは国民総生産が右肩下がりの昨今、女性の労働力は不可欠ですし、ミクロから見ると私が道を切り開くことで次世代が働きやすくなる一端を担えるのではないかと思っています。これは、今国際協力関係の仕事に従事していらっしゃる諸先輩方が私にしれくれたことを、次は私が次世代にお返ししているに過ぎません。重ねて言えば、現在勤務している会社は周囲の方が事情について理解を示してくれているので、私も今はキャリア基盤を構築する時期として、仕事を優先し、出張の依頼があれば実家の母の都合が付く限り応じますし、在京中は週2回、残業するようにしています。母も小学校教員として働いているので、事前の調整が必要ですが、先日などは夏休みを利用して上京してもらいました。母にも迷惑をかけていますが、私も祖父母に預けられ、働いている母の後ろ姿を見て育ったので、申し訳ないけれど、私もひ孫の面倒を見るのでお願いします、と言っています。
 初めての出張の時に、私が成田に向かおうと玄関を出ようとしたとき、それまで私の顔も見ずに走り回っていた息子が急に立ち止まって、泣き始めました。「お母さん、出張行かなくていいよ」と。私は息子に「お母さんはアンパンマンみたいなお仕事をしてくるよ。相関矛盾しているけど君が世界で一番大切だから、未来を残すために、アンパンマンみたいに人を助けてくるよ」と伝え、そのまま泣いている息子を母にお願いして出張に行きました。今生の別れのように辛かったのですが、成田について電話すると元気そうな声で、母に電話を取り次ぎ、「もうさよならちゃんとしたから、おにくたべる」と言っていて、そうか、肉には勝てないのか、と思いました。
 私は、私なりのやり方で息子に愛情を注ぎたいと思っています。それは母親というロールモデルにおける既存の枠組みではありませんし、それがベストだとも思っていません。幼少期に母親がそばにいることが良いことであるのは論を俟ちません。これで良いのかと思い悩む毎日です。けれど、ずっとそばにいるのが愛情であれば、彼の未来の為に社会基盤と平和を構築する愛情があってもいいのではないかと思いますし、父親だけがその役割を担うわけでもないと思います。男だから、女だからという枠組みを超えて、私は自分がどう生きたいのかを問うた時に今の仕事に行きついたし、彼の命のおかげでそう思ったので、納得するまで自分の立てた仮説を検証したいと思います。

(男女・年齢を問わず)国際協力の分野で活躍中(今後活躍する)人材に対するメッセージ
 ここまで読んでいただいた皆さんには私がどれだけ自分に自信がない人間で、なんの経験も持たず、あまり後先も考えずこの業界に飛び込んできたことをお分かり頂けたかと思います。私にとってグローバル化が進み多様化する価値観の中で、他者のそれを尊重することは、開発課題へ臨む前提です。日本型の開発モデルを途上国に押し付けても、地域によっては根本的な課題解決にはならないように思うからです。日本という国は、国民性と時代の潮流があってこそ現状へと結実したのだと思います。子供を持ちながら働くとき、私にはその一枚岩の国民性と戦っているような気持になります。しかし「こうあるべき」を取り去ってみれば、案外世界はシンプルに出来ていて、やるかやらないかです。ですから、今この業界に飛び込むことを望んでいるが、躊躇していらっしゃる方がいれば、私はただ「やってみなよ、それから考えても遅くないよ」と伝えたいです。自分がそう望めば、未来は希望に溢れているのですから。

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(プロジェクト関係者とともに)