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これまでのキャリア
 大学で教育を学んでいる頃、開発教育に関心を持ち、途上国の教育現場を経験して、日本の教育現場で子供たちに開発途上国に関心をもってもらいたいと思い、青年海外協力隊に応募したのがきっかけで国際協力に最初に参加しました。任国パプアニューギニアでは、国立スポーツ研修所での3年間の活動のスポーツ指導・運営の後、首都ポートモレスビーの市役所のコミュニテイーサービス課に2年間勤務、首都の貧困層の多いセトルメント地区での活動を通して、教育だけでなく地域社会全体の開発、貧困削減に関して関心をもつようになりました。
 5年間の協力隊活動を終える頃、縁あって国立スポーツ研修所勤務時代に同僚だった、パプアニューギニア人の妻と結婚。その後、協力隊調整員としてパプアニューギニアに再び戻り、JICAパプアニューギニア事務所に3年間勤務、二女にも恵まれました。パプアニューギニアは当時から、男性だらけの協力隊員、調整員時代は、隊員総会時や地方隊員上京時に、我が家で隊員たちと朝まで語り合い、妻も隊員たちの任地での活動や悩みに聞き入り、自分の生い立ち等を現地語で語り合い、いわば私と妻は隊員達の相談相手、娘たちにとっては隊員の皆さんは良きお兄さんたちでした。

 そんな頃、パプアニューギニアで活動していた開発計画専門家の方に開発計画の勉強を勧められ、家族で日本に戻り、大学院に通いました。家族にとっては初めての日本での生活(それも、かなり伝統的な名古屋社会、、。私の親戚叔父・叔母、従姉弟は皆名古屋人、、。笑。)、私は大学院通いで、研究と論文作成に頭を悩ませながら、長女は日本の幼稚園に入園、当時の名古屋市郊外は、愛知万博前のまだ畑の多い時代で、国際結婚家族は地域の住民にも珍しく、結構国際化していない日本の生活に、妻や娘たちも何かと苦労が多かった事を思い出します。名古屋では国際開発地域開発センターに勤務し、日本と途上国の地域社会開発事例研究、総合地域開発計画研修等に従事し、その後、再び、パプアニューギニアに開発計画専門家で4年間、財務国家計画省に勤務しました。家族にとっては生まれ故郷への里帰りでした。

 その後、アフリカの貧困削減の為の地域社会開発事業に関わらないかと誘われ、初めてのアフリカ、ガーナの北部で、貧困削減の為に様々な日本の援助スキームを有機的に連携活用しながら、地域住民(特に女性・ユースグループ)生活向上支援と地方開発行政の強化を目指した、社会開発総合プログラムの専門家として3年間、首都のアクラにあった国開発計画委員会に配属されながらC/Pと900㎞離れたブルキナファソとの国境地域の郡や州で事業展開を試みました。ガーナで仕事が終わる頃、また大洋州地域に戻ってほしいと言われ、JICAフィジー事務所配属の小島嶼国自立支援広域企画調査員として2年間、当時、同事務所が所管していた小島嶼国8か国におけるJICA事業展開の方向性を検討すべく、各国で大使館や先方政府関係者、ドナー関係者とJICA事業が各国でどのように展開されると効果的かを事務所スタッフと協議しながら、各国の事業展開計画を作成実施しました。その後、再びアフリカに戻り、1994年の大虐殺の後中断されていた2国間援助再開の為に、まだ事務所も大使館もないルワンダで援助再開ODA専門家として2年間、先方政府に派遣され、その後、大洋州の小島嶼国ツバル初代専門家として短期滞在、その後、JICAマレーシア事務所に呼ばれ、ASEAN諸国間の研修拡充、アジア・アフリカ協力推進、イスラム諸国間研修拡充業務に3年間関わり、その後すぐに、再びアフリカに戻り、ザンビアで農村振興関連のプロジェクトリーダーを4年半務め、2014年12月に日本に戻りました。

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(ザンビア農業省のカウンターパート達と)
 この間、パプアニューギニア、ガーナ、フィジー、ルワンダ、マレーシア、ザンビアと約25年間、様々な任地での活動に妻と娘二人も一緒に赴任、ザンビアの時はすでに娘たちは大学生になったので、留学していましたが、妻には一緒に来てもらいました。妻や娘たちにとっては、根無し草(グローブトロッター)のようなジプシー生活、せっかく滞在地の学校で友人たちとも別れなければならず、いつも大変つらい思いをさせてきたと思います。

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(任地ザンビアで大洋州の伝統料理、コーヒーを夫婦で宣伝)
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(長女の英国大学卒業式にて妻と妹と)

現在の業務の概要
 現在は、ザンビアから戻ってすぐに東南アジア・大洋州部東南アジア・第六課に専門嘱託として、大洋州島嶼国のJICA事業案件形成・監理に携わっています。これまで、ほとんど私は在外での専門家またはJICA事務所での勤務が多く、JICA本部での勤務経験は派遣前の特別嘱託ベースの短期間だけでしたので、地域部での仕事はとても新鮮でかつ幅広く求められる業務への対応は新たな挑戦ですが、若くて優秀なまわりの方々に助けられ、かつ刺激を受けながら、初心に戻って学びの毎日です。本部勤務は、トップの経営層の考え、外務省をはじめ関係官庁等、様々なアクターが日本の開発協力に関わっているダイナミックさがあり、現場ではなかなか見えてこない、「政府主導の開発協力の方向性・戦略」を日々実感する事ができます。

家庭との両立で大切にしていること
 「開発協力は何のため。」との思いをそれぞれ持ちながら、私達は、日々様々な立場で様々なJICA業務に携わっていると思います。私の場合は、個別契約ベースでこれまで、大洋州島嶼国、アフリカ、そして東南アジアと様々な地域でJICA業務に携わらせていただきましたが、基本、家族みんなでどこにでも長期滞在してきました。
 私の開発協力の仕事への勝手な関心で、我儘いいながら2-3年毎にグローバルに引っ越しを続けてきたわけですが、当然、妻や娘たちにとっては、犠牲になる思いもあったかと思います。特に妻にとっては、パプアニューギニアでは、当時就学人口の2%しか進学できないといわれる大学まで卒業し、同国の自立する女性としてパイオニア的に働きだした頃に、おそらく想像もしていなかった日本人と結婚し、出産と共に仕事を辞め、様々な途上国での長期滞在をするような人生になるとは想像もしていなかったと思います。
 初めてアフリカに赴任する際は、さすがに当初はいろいろ心配の様でしたが、もともと気丈な女性なので、現地の方々や外国人社会の方々とも積極的に交流してきました。私もできる限り、妻のやりたいことへのサポートをして、任国で停電や断水等も頻繁にありましたが、楽しい生活が家族でできるように心がけました。
 アフリカでも東南アジア(マレーシア)でも、パプアニューギニアの事を知っている人は、JICA関係者も含めてほとんど皆無だったので、よく任地では大洋州地域の郷土料理や舞踊、衣装、音楽を披露する「アイランダーフェスティバル」を自宅で企画したり、地元のチャリティ―イベントに出店したり、積極的に開催していたので、私も全面的に妻や娘たちのそうした活動を支援しました。
 娘たちにとっても、それぞれの赴任国で、その国を体感し、小学校、中学校、高校と途上国のインターナショナルスクールに通いながら、様々な国から集まっていた同様な子供たちと友人になれたのは、大きな糧になったのではと思います。もちろん、時々、二つの国籍を持ちながら、自分達の父親や母親の国でもない途上国で過ごし、「自分の出身地はどこなのだろう。」との思いにはせて事も度々あったようですが、「国際人」として、どこでも生きていける人間になってくれればとの思いでサポートしてきました。
 私たちは、開発協力を通して、貧困削減や途上国の人々の生活向上と幸せを願って日々、様々な業務に従事していますが、一番身近な自分の家族と幸せに楽しく暮らせずに、他人様に幸せをもたらす事はできないのではと思います。

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(娘たちとJICAの大洋州地域事業広報)

国際協力の分野で活躍中(今後活躍する)人材に対するメッセージ
 開発協力の現場は様々なところにありますが、最終的には私たちが日本と世界の中で持続的に平和共存・共栄を目指す、JICAのビジョン「すべての人々が恩恵を受けるダイナミックな開発を進めます」に集約されるのではと思います。小さな事業でもビックなインフラプロジェクトでも、開発事業の実施支援を担う私達ひとりひとりが、自分の関与する事業が、JICAのビジョンを実践しているか、するように心がけているか、常に忘れずに、今後も新しいことに挑戦しながら、みんなで頑張れればと思います!