OLから国連職員へ、協力隊が大きな転機!先のことを考えすぎずに行動しよう ~協力隊の任期を終えて22年~

織田 靖子さん

国際機関 UNHCR 50代

  • 国際機関 職員
  • 平和構築
  • インタビュー

    海外協力隊を出発点に、国際協力の世界に飛び込み、UNHCRの職員として活躍する人もいる。織田靖子さんだ。協力隊に参加する前は大阪でOLをしていた。協力隊の任期を終えて22年。「行動することで道が開ける」と説く織田さんに、どうやって上り詰めたのかを聞いた。

    マラウイ隊員で難民に初めてかかわる

    「協力隊募集」。通勤電車の中でたまたま目にしたつり革広告が、織田さんの心に突き刺さった。織田さんはこの時(1988年)、24歳。鐘紡本社(当時)に就職して3年目、国際部で翻訳の仕事をしていた。「途上国に興味はあったし、休暇でネパールにトレッキングにも行った。ただ自分が本当に何をしたいのか模索中だった」。協力隊を受験する際に選んだ職種は「秘書」。受けられそうな職種は村落開発普及員(現在のコミュニティ開発)とこれくらいしかなかったという。「村落開発は難関だと聞いていたので、秘書を選んだ。それでも倍率は60倍と高く、ダメ元で挑戦した」。運良く合格し、派遣先はマラウイの首都リロングウエに決まった。1989年1月に着くと、隣国のモザンビークで紛争が悪化しており、大勢の難民がマラウイに押し寄せていた。非常事態なのに不思議だったのは、マラウイ人は笑顔いっぱいで、難民を受け入れているという切迫感が漂っていなかったことだ。配属先は大統領府食糧援助調整室。マラウイ政府からバイクと机をもらい、「あとは自由にやれ」と言われた。そこで織田さんは、政府が発表する難民数をとりまとめたり、在庫管理のシステムを作ったりした。IT隊員にコンピューターの使い方を教えてもらった。
    印象に残っていることがひとつある。それは、マラウイ人の同僚たちがモザンビーク難民のことを「ブラザー」「シスター」と呼んでいたことだ。助けるのは「当たり前」と話していた。ただその一方で、難民登録や統計がなぜ重要なのかがわかってもらえず、最初は大喧嘩した。「協力隊の任期中に数字が毎月出せるようになってホッとした」。
    活動をしているうちに自然に、国連や赤十字、NGOなどの人たちと知り合いになった。2年強の活動期間(3カ月延長)で垣間見た「国際社会」に興味をもち、将来は多国籍のチームで働いてみたいと思うようになった。

    国連採用ミッションで協力隊経験を話す

    協力隊の任期が終わるころ、国連で働く友人たちからは「修士号をとって、国連を受けてみては」と薦められた。そのアドバイスに従い、進学を決意。1年で学位が取得できる英国を目指した。進学先探しと並行して、日本政府が経費を負担し、日本人を国際機関に2年派遣する制度「JPO(ジュニア・プロフェッショナル・オフィサー)」も受験。結果、大学院、JPOの両方とも合格した。
    だがそのころ(1991年)、第一次湾岸戦争が勃発。ちょうど国連ボランティア計画(UNV)のリクルートミッションが日本にやってきたので、織田さんは会場に行った。そこでたまたまマラウイでの活動の話をしたところ、「イラクに至急行ってくれないか」との打診を受けた。大学院進学、JPO派遣、UNV派遣と3つの選択肢がある中で緊急性が高い順番で行くことにした。10日後くらいに日本を発った。緊急UNVとして世界食糧計画
    (WFP)に配属された。仕事の内容は、倉庫周りや家庭を訪問し、援助機関が配給した食糧が人々の手に届いているかを確かめること。イスラム圏を知るよい勉強になったという。「世界のニュースの最前線とはどんなところなのか、平和維持軍や国連は何をしているのか、自分の目で確かめたかった。将来、本当にこういう仕事で大丈夫かな、だめだったらやめようかな、と見極めたい気持ちもあった」と当時を振り返る。4カ月で予定通り帰国し、その後、英国の大学院に進んだ。大学院では「英語で書く力をつけたことが大きかった。この弱点を克服するのに苦労した」と織田さん。

    協力隊で身に付けた「チチェワ語」が重宝

    修士論文を仕上げながら1992年10月から、JPOとして国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)に勤め始める。あらゆる試験を突破してきた織田さん。難関といわれるJPOの試験に合格する秘訣について「最近は試験がとても難しいそうなので、20年前とは事情も違うと思う。ただ今も昔も、受験者の能力というより、仕事の枠があるかどうかが問題」と話す。
    勤務先は、希望どおりUNHCRのザンビア・ルサカ事務所に決まった。「マラウイ(協力隊)やイラク(UNV)で出会った国連職員やJPO、UNV、NGOの人たちは経験豊かで、何カ国語も流暢に話すし、専門分野をもつ人ばかり。圧倒された。こういう人たちと対等に仕事をするには、せめて土地勘のあるマラウイ近辺が良いだろうと考えた」。織田さんのそんな不安を払しょくしてくれたのが、協力隊時代の経験だった。この地域の政治や文化に通じているのはもちろん、隊員時代に学んだチチェワ語が思わず重宝した。ザンビア政府や地元のNGOからの信頼が厚かったこともあって、UNHCRの上司からアンゴラ難民の帰還という難しい仕事を任された。職員並みに扱ってもらったという。

    UNHCRの日本人職員の9割が元JPO

    JPOは、国連職員を目指す日本人にとっては登竜門になる。UNHCRの日本人職員(東京採用を除く)の9割以上がJPO出身だ。JPO終了後のUNHCR就職率はおよそ7割。ただこれ以外に別の国連機関に採用される人もいる。難民対処の重要性が高まると、就職率は上がる傾向にある。
    どうすれば職員への道が開けるのだろうか。JPOで2年間働いた後、正規採用された織田さんは「これとこれをやれば職員になれるという方程式はない。あえていえば、通常の仕事をこなすだけでなく、具体的な成果を挙げることがプラスに作用する」とアドバイスする。成果を出すには自分ならではの強みを見出し、それを磨く必要がある。強みは、IT、通信、会計、医療、建築・土木、語学、ロジスティクス(後方支援)でもなんでも構わない。織田さんの場合、援助の受益者数をとりまとめたことが評価された。「あのJPOがいたからできた」という実績があれば、チャンスが広がる可能性はある。難しいのは、職員になっても最初の契約は1年といった短期がほとんどであることだ。織田さん自身、最初はどんな契約でもいいから10年続けるという目標を立てていた。織田さんは「間口を広げ、柔軟に選択することが大切。またタイミングも大事。しばらく待つこともあるかもしれない。希望のとおりに進まなくても、いつか必ず道が開ける。いろんなドアを叩いて頑張ってほしい」とエールを送る。
    国連機関で働くには、JPO以外にも、国連競争試験(National Competitive Recruitment Examination)(※1)やインターン、コンサルタントなどの入り口がある。
    ※1:国連事務局が外務省と協力して若手国連職員を採用するため実施している大学卒業以上の方を対象とした職員採用試験

    配った鍋が15年後も使われていた!

    国連機関に勤務して20年も経つと、本部でも現地事務所でもデスクワークや会議などが増える。そうした中で織田さんがこれまでにやりがいを感じたのは「現場での仕事」だ。
    モザンビーク北部に1993年に赴任した際、周辺国からモザンビークに帰還した難民に、食糧や鍋釜、種子、農工具などを配給したり、破壊された学校を建て直したりした。それから15年以上経った2009年、織田さんは社会調査で同じ地域を訪問した。すると驚いたことに、「村人はまだ、当時の鍋を大事に使っていた。再建した学校もフルに活用されていた。援助の効果は計り知れないと実感した」。
    1999年のコソボ紛争も忘れられない仕事のひとつだ。織田さんはアルバニアの旧ユーゴスラビア国境に派遣された。1日に3万人の難民が雪崩のように押し寄せ、人混みで街をまっすぐに歩くことすらできなかった。地元政府、NGO、ジャーナリスト、難民、住民などと一致団結して、24時間働き、難民を支援した。「それでも当時は、援助が遅い、援助機関同士の調整が悪い、援助依存の可能性があるとか、問題点ばかり指摘された」。織田さんはこの体験の後、厳しい状況でも精神的にブレなくなり、また、自分がその現場にいない限り決して人の仕事の批判はしないと決めた。
    エチオピアのソマリア国境に勤務していた2012年には、悪化していた治安をなんとかするための特別手段として、「キング」(有力氏族をまとめる王様)に会いに行った。「キングは普段は森にこもって瞑想している。重要な交渉だと出てきて、エチオピア、ソマリア、ケニアの国境地域の平和と安定を図る。前線で活動する援助関係者の安全のためにも、長老中の長老に会えたのは貴重な経験だった」。

    「人道」と「開発」のバランス

    天職に就いた織田さん。でも悩みもあるという。それは「人道援助」と「開発協力」の連携だ。国際機関の制度上、「人道」と「開発」は分かれている。このため現場のニーズに十分に応えられないことがある。洪水被害に対する緊急援助を考えるとわかりやすい。人道援助だからという理由で予算が半年や1年で終わる事がある一方、インフラ整備は開発協力のためスタートまでに時間がかかるということがどうしても起こってしまう。「こうしたギャップに現場では何度も直面した。人道援助の際にも長期的視点は必要だし、開発協力にもスピード感は欠かせない。バランスをどうとれるか。これが、私のライフ・ワークだと思っている」。このギャップはとても深い問題だ。たとえば難民キャンプの運営は一見すると、短期的な処置に映るかもしれない。ところがソマリアやシリアから逃れた難民の住むキャンプで教育や職業訓練を提供すれば、彼らが将来、母国に帰って、国づくりをするときに大きな力となる。長期的な開発の一端ともとらえられるわけだ。
    国内避難民への食糧配給もそうだ。配って終わりにするのではなく、避難民をマネジメントに参加させたり、野菜栽培などの農業技術を導入したり、やり方を工夫することで自立に向けた活動になる。

    協力隊に恩返ししたい

    織田さんは、実はUNHCRから出向などの形で、国際協力機構(JICA)の仕事も行なっている。2007年11月から3年2カ月、企画部国際援助協調課で援助協調シニア・アドバイザーとして、「人道」と「開発」の連携や安全管理研修などを担当した。
    2013年1~7月には、JICAブラジル事務所に企画調査員として、ブラジルとの三角協力・南南協力(途上国が他の途上国を支援すること)推進にかかわった。このポストは、JICAの一般公募に応募した。「新興国との付き合いは、日本にとっても国連にとってもこれからもっと重要になる」と織田さんは感じている。
    自分の出発点は協力隊、と繰り返す織田さん。JICAの事業にはいつも関心を寄せる。エチオピア、モザンビーク、パキスタンなど、UNHCRの赴任先では必ずJICAの在外事務所とも連絡をとっていた。「計画したわけではなかったけれど、協力隊員経験のおかげで今の自分がある。いつの日か、協力隊という将来性豊かな制度に恩返ししたい」。織田さんはこう力を込めた。


    ※本記事は、2012年11月1日時点での情報となります。

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