人類学者として開発に携わる!国際協力への道は「まっすぐ」だけではない ~協力隊の任期を終えて32年~
木村 秀雄さん
大学 / 東京大学総合文化研究科 / 60代
キャリア年表
インタビュー
東京大学大学院教授の木村秀雄さんは、海外協力隊(職種:文化人類学)のOBだ。派遣先のボリビアから帰国してすでに32年。人類学者として実績を挙げてきたが、いつの間にか、国際協力のフィールドでも仕事するようになっていたという。国際協力のプロフェッショナルをストレートに目指さなくても、専門分野があれば、その知識と経験を生かす形で国際協力に携わるルートもある。
木村さんが協力隊に参加したのは1978年。東京大学大学院の博士課程2年目のときだった。 「修士論文のテーマはアマゾン。理論だけでは井の中の蛙になる。南米にどうしても行きたいと思っていたら、教授から協力隊の制度を教えてもらった」。派遣先は思惑通り、南米ボリビア。歴史あるボリビア隊員の中でも2代目だった。ただ本当は“未開の地”に行きたかったという。
先住民の神話を書き起こす
「ただ研究所にいたのは1年ぐらい。2年間は、ボリビアのアマゾン地域で生活する先住民の村に滞在した」。 エセエハ族などの村を転々とする。村はたいてい、町から川を1日かけて登った僻地にあった。電気も水道もない。先住民の村で木村さんは、神話の聞き取りを始めた。村人の話を録音し、それをテキストにしていく。内容が正しいかどうか村人に確認してもらう作業も含め、10分の話をスペイン語に起こすのに200時間かかった。 「先住民の神話と社会組織についてのレポートをスペイン語で書いた。写真を撮り、民芸品も集めた。レポートは村人にも渡していた」。人類学研究所の書物として刊行された論文もあるという。
研究者として貴重な一歩に
ボリビアでは、米国に本拠を置く「夏期言語協会」(SIL)という、聖書の翻訳で有名な組織が活動していた。
SILは社会援助もやっているが、SILのことをボリビア人の中には「CIAのスパイだ」と言う人もいた。また、プロテスタントの各宗派の集合体「ニュートライブスミッション」もボリビアに入っていた。この団体を、ブラジルのある村は「文化の侵攻ではないか」とたたき出したことがあったとのこと。
一方で木村さんは宣教師と接触して、まだ15年ほどのエスニックグループを訪問したことがある。彼らは周りの白人に追われ、森の中を逃げ回っていた。 「驚くことに、このグループの人たちは、火の起こし方も知らなかったし、伝統的な儀式はほとんど残っていなかった。20人ぐらいだと文化は守れないのだな、と実感した」。
ラテンアメリカの近代史を振り返ったとき、カトリックやプロテスタントの関わり抜きには語れない。木村さんは「キリスト教は確かに、文化を変えるというマイナスがある。ただその半面、先住民の土地の権利取得などを手伝っているのも事実。生存を守っているプラスもあることを知った。」と語る。
木村さんはまた、協力隊時代のフィールドワークを通じて、人類学を単に研究するだけでなく、その成果をいかに研究対象者に還元するか、という必要性を学んだという。この姿勢が、理論ばかりをかざす人類学者とは一線を画し、木村さんを10数年後に再び、国際協力のフィールドに向かわせたといえる。
亜細亜大学ではアンデス研究も
亜細亜大学の経済学部国際関係学科で、木村さんは、人類学の授業とゼミを受け持った。その一方で、人類学者としての研究活動では、ボリビアでのフィールドワークの経験が買われ、ペルーとボリビアのアンデス地域を調査する複数の大学の共同研究プロジェクトメンバーにも名を連ねる。「経済学部長の配慮もあって、1983年、
1985年、1987年と、1年おきに、5カ月もアンデスに行かせてもらった。だから、授業は1年の半分しかやっていない年もあった」。このアンデス研究で木村さんが担当したのは農業と牧畜だ。アンデスの先住民はどんな形態で農業・牧畜を営むのか、社会関係はどうなのか、大土地所有者との関係はどうか、農地改革の前と後で何がどう変わったのか、などを現地調査した。
30年間続けたアンデスのフィールドワークでは、現地の大学教員6人を助手に雇った。対価を払い、ペルーとボリビアの人類学者の生活を支えながら、研究者としてのノウハウも伝授。教え子のうち数人はその後、国連開発計画(UNDP)や国際NGOワールド・ビジョンに勤務したという。
人類学者が開発コンサルタントになるケースは少なくない。住民も巻き込んだ包摂的(インクルーシブ)な開発には人類学の視点が欠かせないからだ。この研究を「開発人類学」と呼ぶ。
JICAの仕事が舞い込み始める
象徴的な仕事のひとつが、東京大学大学院に2004年に立ち上げた、実践的な修士・博士コースの「人間の安全保障プログラム」だ。このプログラムは、だれもが安心して生活できる社会を追求する人材を育てることを目的としている。JICAとのつながりも徐々に深まっていく。協力隊の事業評価や南米のプログラム評価などにかかわるほか、青年海外協力協会(JOCA)の理事も務める。
また木村さんは1990年代から、派遣前訓練中の隊員候補生を相手に、「異文化理解と適応」の講義も担当している。そこではこんな話をする。「協力隊に行ったら、きちんと仕事をしよう。現地の人と仲良くなればいいというものではない。みんなで仲良く、楽に暮らせれば、それが理想なのかもしれない。だが現実としてそれは難しい」。人類学者としてのフィールドワークも、現地の人と仲良くなれば、良い研究につながるわけではないという。むしろ、特定の人と仲良くなりすぎると、その人が周りから反感を買い、責められることもある。そういう事情を踏まえて、研究活動をしている。研究者とボランティアと立場の違いこそあれ、将来を切り開きたいのであれば、そのスタンスは同じ。「とにかく一生懸命、活動すること。どうすれば得だとか、余計なことは考えない。悶着が起こったときにどうするかが大事だ」とメッセージを送る。
木村さんが大学生のとき、71年にニクソンショック、73年に第1次石油危機と、立て続けに日本経済を揺るがす出来事が起きた。「人生は計算できない。だからこそ努力することが一番重要」と持論を説く。
「役に立つ教育とは」を考える
木村さんがいま最も気になっているのは「教育支援」の効果だ。「『能力強化』と一口で言っても、その中身は何だろう。教育のどんなものが役に立つのか。どんな能力をつけさせてあげればいいのか。『教育の効果なんて、何十年先にならないとわからないよ』という考え方でいいのだろうか」と疑問を呈す。たとえばラテンアメリカでは、先住民にスペイン語を教える活動がある。だが言葉だけを教えても、先住民にとってさほど大きなメリットはないかもしれない。 「スペイン語能力だけでなく、注文書や領収書の書き方、もっといえば注文を受ければ発注者がモノを取りに来なくても請求できるといった商習慣とセットで教えたほうが役に立つのではないか。実際にそういった取り組みもある」。
このほか、牧草地や森林などの「共有資源」は荒れ果てるというセオリー「コモンズの悲劇」についても否定的な見方をする。コモンズの悲劇とは、自分の「所有地」は大切に使うが、「共有地」だとみんなこぞって搾取に走る。その結果、環境破壊が引き起こされるという現象を指す。「アンデスは公有地だが、住民が利用権をもっている。(女性初のノーベル経済学賞を受賞した故人の)エリノア・オストロムは、共有資源も、使う人たちが自分たちで規則をつくって利害調整し、うまく運営できることを解明した。ルール作りや調整メカニズムを学ぶ教科はないが、あってもいいのでは」
人生も“恩返しのステージ”に入ったと語る木村さん。「協力隊に参加して本当に良かった。だけどいまから別の技術を身に付けて、先住民のために何か役立つことをしたい」と意欲はまだまだ衰えそうにない。
※本記事は、2012年10月1日時点での情報となります。
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