第487号 国際協力事業に参加する喜び

2015年に改訂された国際開発援助大綱には、日本の国際協力は、「日本の国益確保に貢献すべき」ことが明確に規定された。 途上国の開発を支援することこそを目的にした1993年に発布された初めてのODA(国際開発援助)大綱から大きく舵が切られた感もある。 これを映し、JICAが実施する国際協力事業において円借款事業が急速に拡大するとともに、日本の民間企業が開発途上地域にビジネス展開するための支援が強化された。

2003年、緒方理事長が「国際協力を日本の文化に」と謳いあげた時から、ちょうど干支が一回りした時期と重なるのも時代の巡りあわせと言えるかも知れない。 それでも、開発途上地域の国民に感謝されるのは、現地の人々共に汗を流しながら組織や人材の育成、生計の向上、 貧困軽減のための諸活動に取り組む専門家やボランティアであり、このことが国際協力を目指す日本人の励みになり続けている。

筆者の当時の通勤風景

(写真1:筆者の当時の通勤風景)

JICAは、多くのアフリカ諸国が独立を達成した1960年代の始めから半世紀以上に渡って、アフリカの人々の民生向上を支援して来た。そして、このことは、支援に携わった日本人と関わったアフリカの人々の心に深く刻まれている。

筆者は、2000年当時、南アフリカ事務所に勤務したが、深井戸を掘り、そこからパイプラインを通して住民に飲料水を供給する開発調査パイロットプロジェクトの村を訪れた時のことを、 まるで昨日のことのように鮮明に覚えている。白く長く伸びたあごひげを撫でながら、村の長老が私にこう語り掛けた。 「我われは、長い間、アパルトヘイトの下で差別された生活を送って来た。我われが小学校の頃、極東アジアに日本という小さな島国があり、 そこでは住民が互いを敬い、隣人との争いを避け、平和に暮らしていると書いてある教科書を何度も何度も読み返したものだ。私は、このような土地がこの世に存在するはずはなく、

日本という国は、きっと天国にあるのだと思い込んでいた。そんなある日、日本人が我われの村にやって来て、井戸を掘り、水道を敷いてくれた。 私は、神様がアパルトヘイトを耐え抜いた我われを祝福するために、日本人を遣わしたに違いないと今でも信じている。」 まるで水が流れるようにこのことをとうとうと述べた長老は、私の手を強く握り、肩を抱きしめた。 アフリカで国際協力に関わったことがある専門家やボランティア、そしてコンサルタントは、これと同じようなことを数多く体験し、それ故に、アフリカから離れがたいに違いない。

JICA供与の井戸で水を汲む少女

(写真2:JICA供与の井戸で水を汲む少女)

また、ある日、州政府の教育局長は、黒人の教員たちを相手にこう話しかけた。 「アパルトヘイト時代、多くの黒人が教育の機会を奪われたことは事実である。しかし、そのことを我われは、今でも弁解に使っていないか。 ネルソン・マンデラが示したように、アパルトヘイト時代、我われ黒人にも少ないながらも機会は与えられていたのだ。 問題は、我われがそれを捕まえる努力をしたかということだ。そしてその状況は、今でも変わってはいないのだ。」 国際協力事業に参加することは、簡単なようで、実は、なかなかそうではないのが実状である。

特に、50代後半から60代となればなおさらである。 それでも、志があるところに道が開けることも事実である。自分が努力し磨き上げて来た技能や経験を開発途上国の人々の生活向上に役立てることが出来ることは、 何物にも代えがたい人生の充実感をもたらしてくれる。その背を押せる制度作りを含めてJICAには、まだまだやるべきことが数多くあることを、キャリア相談に臨みながら何時も強く感じている。(Y.T.)

<筆者が過ごした北部ウガンダの風景>

カンパラーグル街道沿いのマンゴ売り

(写真3:カンパラーグル街道沿いのマンゴ売り)

村のコミュニティスクール

(写真4:村のコミュニティスクール)

グルの町

(写真5:グルの町)

ナイル川

(写真6:ナイル川)

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