コラム 地球規模で生きる人
安田 大志(やすだ・たいし)さん(株式会社坂ノ途中)
“インドで踊りませんか?”その誘いは僕のアンテナとつながり、世の中を知ることになった。
家族旅行先のカンボジアで目にした光景。小学生の自分と同じ歳ほどの少年が、なぜ物乞いをしているのか、自分とは何が違うのか。その時、彼の中に立った小さなアンテナは、大学生になって大きく動き始めます。
「100年先もつづく農業を」をテーマに、環境への負担が小さい農業の普及に取り組む会社に就職した理由とは。ラオスやインドネシアなどアジアのコーヒー農家さんたちへのサポート、ITとのコラボなど、「貧困のない世界」を目指して、時に迷いながら、時にアプローチ方法を変えながらも、着実に大きく広がっていく輪。全3回シリーズの第2回をお届けします!
サッカーに没頭した中学時代。英語は得意科目だった。
シンガポールから帰国して日本の中学校に進学した安田さん。どんな学生生活だったのかな?
- 中学生~高校生時代はどう過ごしていたの?
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中学校に入学した僕は、「日本の小学校を卒業してない子」という点で、他のみんなと少し違う存在とみなされたみたいだね。それで、特別扱いされない自分の居場所を求めてサッカーのクラブチームに入り、サッカーに明け暮れるようになったんだ。だからと言って、学校が嫌だったわけじゃないよ。みんなと何かするのは好きだから、文化祭や体育祭の時は運営委員として楽しんでいたね。
勉強に関しては、特に英語は勉強したかな。中学生になって初めて勉強する友だちよりは英語に触れてきたということもあって、英語の時間は褒めてもらえることが多いからね。抜き打ちテストでも上位の点数が取れたことも自信につながって、自己肯定感も持てるようになったと思う。
- 進学する大学はどう選んだの?
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みんなが受験勉強に集中し始める時期になっても、僕は相変わらずサッカーに夢中だったんだ。でも、「自分は何をしたいんだろう」「どんな仕事をしようか」といったことは少しずつ考えていたかな。「発展途上国をサポートする機関で、国境に関係なく貧困に関わるような仕事がしたい。そのために、同じ志、同じ夢を持った人たちと一緒に勉強できたらいいな」、そんなことを思いながら大学のことを調べた結果、大阪大学の国際公共政策学科という学科が、僕のやりたいことが学べるところだと分かったんだ。担任の先生に相談したら、「浪人してでも行きたいかどうか考えろ」と言われて。受験勉強のスタートが遅かったからね。悩みに悩み抜いた結果、やっぱり行きたい!と決意。実際に浪人はしたけど、後悔はしていないよ。
大きなターニングポイントになった、インドでのダンス講師の経験。
勉強だけでなく、様々なことに取り組んだという安田さんの大学生時代について聞いてみたよ。
- どうして大学でNPO活動を開始したの?
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大学入学後、「自分がやりたいこと」や「何をすればいいか」は、教科書やパソコンに向かって勉強するだけでは分からない。むしろ、勉強すればするほど、分からなくなってしまうって感じ始めたんだ。それじゃあ、もう一度現地に行ってみようと、タイから改めてカンボジアへ、そしてベトナムにバックパックで旅行に行ったりしたよ。
一方で、「勉強以外で、純粋に楽しいことがやりたい!」と思い、ダンスも始めたんだ。とても楽しくて、学園祭でも張り切って踊ったりね。そしたらある時、同じ学科の同級生から「インドで踊りませんか」と声を掛けられたんだ。詳細を聞くと「インド・ムンバイのダラヴィスラムで、子どもたちの勉強のサポートをしている。けれど出席率が低いため、識字教育だけでなく社会性が身につくような教育をしようと音楽を教え始めた。インド(ボリウッド)映画の影響もあってか、みんなダンスがしたいと言うが、踊れるスタッフがいなくて探していた」とのこと。
話を聞いた僕は、その活動に興味を持ったというより自分のアンテナとつながったと思ったね。カンボジアでの経験から、僕の中でずっと関心があった“貧困”というキーワードにつながったし、ダンスの経験も生かせると。ちょうど次のバックパック旅行の行き先をインドと決めていたこともあって、すぐに手を挙げたよ。
- インドでのダンス講師は、どうだった?
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インドの子どもたちは、とても楽しそうに踊ってくれたんだ。なぜスラムにいるのか、どういう生活をしているのか、将来はどうなるのかは分からないけど、踊っている時は楽しそう。だから、その時は子どもと踊るだけで貢献になっているという満足感が自分の中にあったかな。活動費が必要になれば、自分たちでお金を稼ぐことにも挑戦したよ。スタディツアーをやってみたり、JICAに草の根技術協力事業の申請をさせてもらったり、クラウドファンディングで集めたり。
でも、子どもたちだってずっと踊っているわけにはいかないよね。生きていくためには働かないと。ところが、仕事はなかなか見つからない。やっと就職できたと思っても、労働環境が過酷で辞めてしまう。結婚しても、仕事がないから奥さんに愛想をつかされてしまうということも珍しくない現実。インドでの活動は自分なりに納得感を持ってやっていたけれど、しばらく経ってから結局何をしているのだろうと感じ始めたんだ。子どもたちを楽しませたい、元気にしたい、何かしたいと始めたけれど、僕は役に立っているんだろうか。そうやって考えているうちに、自分にできること、できないことが少しずつ明らかになってきたんだ。
軸は“貧困”。自分の足で課題を探した。
インドでのダンス講師の活動後、就職するまではどんなことをしたのかな?
- 就職活動中に考えたことって何?
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まずは、スラムの子どもたちの生活や、どうしてスラムに集まるのかについて調べてみたんだ。彼らの多くは農村部での暮らしが成り立たなくなって都会に出てくるけれど、教育を受けていないので割のいい仕事がない。収入が得られない、都会に身寄りがない、となると不法に住むしかない。そしていつしか、そのコミュニティの中で生きていくしかない流れになっていることが分かったんだ。
次に考えたのが、なぜ農村部の暮らしが大変なのかっていうこと。調べただけじゃ分からないから、この時もやっぱり現地へ。ある農村では「何種類の作物を育てているか」について話を聞き、また別の農村では「どのように作物を流通させているのか」について話を聞いたりしたよ。ほかにも、グラミン銀行を立ち上げたムハマド・ユヌスさんの本を読んだり実際に会いに行ってインターンしてみたりしながら、今の自分に何ができるか、何が難しいかを勉強したんだ。
その結果、「発展途上国をサポートする機関で働きながら、貧困に関わるような仕事をしたい」というざっくりとした思いから、「農家さんを支援したい」という具体的なイメージを持ち始めたんだ。大きい農家さんはどんどん大きくなり、小さい農家さんはどんどん小さくなっていくという社会の仕組みの中で、特に小規模な農家さんをサポートしたいって。いろいろ工夫して努力しているのに社会的制約によって評価されず、実を結ばない小さな農家さんが多いんだ。そういう人たちのサポートができないかって考えたんだよ。
- なぜ、株式会社坂ノ途中に入社を決めたの?
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ある企業に内定を貰ってから入社までの半年間、坂ノ途中でアルバイトしたんだ。畑での作業を手伝いながら、農業のことも教わったよ。この時に坂ノ途中の代表とこれからのことを話したら、「それだったら、ウチですぐ挑戦してみたらいいよ」と言ってくれたんだ。僕は参考書を読むより、問題集を解きながら学ぶタイプ。これまでもたくさんのことを現地で教わってきた。できるかできないかは分からないけれど、すぐに行動を起こしたい!そう思った僕は、いただいていた内定を辞退して2016年4月に坂ノ途中に入社。アジアでの事業に携わることになり、ウガンダで2ヶ月間経験を積んだあと、9月からラオスに行ったんだよ。
次回は、コーヒー農家さんの支援から広がる世界や、安田さんのこれからについて教えてもらいます。お楽しみに!
プロフィール
安田 大志(やすだ・たいし)さん(株式会社坂ノ途中)
株式会社坂ノ途中/海外事業部マネージャー
海ノ向こうコーヒー産地担当
大阪大学法学部国際公共政策学科卒。小学生の時に地雷で手足を失った同じ年頃の少年に出会ったことをきっかけに、貧困や平和について少しずつ勉強し、考えるようになる。大学在学中より、インドのスラムに住む子どもたちにダンスを教えるなどのNPO活動を開始。2016年、株式会社坂ノ途中に新卒入社。ラオスでの小規模農家へのサポートを経て、現在は“アジアのコーヒーに詳しい人”として日本での販路拡大や、ITをはじめとする異業種とのコラボにも挑戦中。