「国際協力」とは~岸田袈裟さんとの思い出
途上国の人たちの助けになりたい。世界の諸課題の解決に貢献したい。自分の知識や技術を役立てたい。経験を積み成長したい―。国際協力を志すとき、さまざまな思いがあると思います。でも、そのために何が必要なのか。自分には何ができるのか。何をするべきなのか―。同時にさまざまな悩みと向き合うこともあります。いまは、考える時間が少し多くなっているかもしれません。
途上国に寄り添い続け、故郷から着想を得て、「国際協力」を成し遂げた先人とJICAのベテラン職員とのエピソードをご紹介します。国際協力を志す皆さまの参考になりますように。
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アフリカの開発に従事してこられた多くの碩学を前に、このような話を紹介するのはいささか気がひけるのだが、国際協力とは何か、という問いを前に逡巡しておられる若い方々のために、思い切って私のささやかな経験談を披露させていただく。ご紹介するのは、長年にわたり、ケニアで子ども達の栄養改善や村落住民の生活改善活動に関わっておられた岸田袈裟(けさ)さんと過ごした、不思議な時間の話である。
話は13年前に遡る。当時、基礎教育関連の部署に在籍していた筆者は、ナイロビで開かれる教育分野プロジェクトの専門家会合に出席するために、ケニアを訪れていた。連日の会議やワークショップを滞りなく終了し、帰国のためナイロビ空港からドバイ行きの午後便に搭乗していた。専門家のレポートに軽く目を通した後、少しまどろみを覚えた時、隣の席の女性が、おもむろに日本語で声をかけてきた。「失礼だけど、JICAの方?」あまりに唐突な声掛けに驚きつつ、「そうですが」と答えた。見れば、眼鏡をかけた壮年の日本人女性である。静かに微笑みつつ、その婦人は言葉を続けた。「貴方は協力隊関係のお仕事をしておらるんですか? 私は仕事でずっとナイロビに住んでいるのだけれど、ちょっと用事があって一時帰国するところなんです」「いえ、自分は教育関係の技術協力に携わっています」「そう」彼女はそう言うと、少し上を見上げた後に、また私の顔を見据えて、こう述べるのだ。
「こんなことを言うと失礼ですけど、日本の若い人たちの『自分探し』に2年間も付き合わされる、ケニアの人たちは可哀想ね」
「え?」全く予想もしない言葉を耳にした私は、暫し呆然として、その婦人の顔を見つめた。「だって、アフリカの人たちは、そんなことに付き合っている余裕なんてないもの。自分たちの苦しい生活のことだけで精一杯なのよ」
そんなこと、とは、随分な言われようではないか。「いや、そういう状況を少しでも改善したいという意欲を持った日本の若者たちが参加しているのが、協力隊なんじゃないですか」私は少し色をなして反論した。すると彼女は、「善意はいいの。でもね、ケニアの人たちに寄り添って何かを良くするには、結果を出せるだけのちゃんとした専門技術や経験を持ってないとダメでしょう。それに隊員さんたちは色んなことを試すけれど、多くは成果を見届けず、2年経ったら帰っちゃうじゃない。その後はケニアの人たちが解決しろって、そういうのは無責任じゃないかしら」穏やかな語り口ながら、彼女の言葉は辛辣だった。
彼女はそうして、自らのことを語り始めた。
「私は元々、栄養学の専門家なんです。それで昔、大学の先生の助手として、調査のためにケニアに来たんだけれど、農村では衛生状態がすごく悪くて、慢性的な風土病が広がっていたんです。特に、妊婦とか、ずっと家にいる女性や子どもに病気が多かった。これは何とかしないといけないって思って、何度かケニアに来るうちに、こっちをベースに活動しよう、ということになって、それ以来(笑)。手始めに農村の社会調査や疫学調査をして、まずは生活改善から始めないといけないということが分かったので、竃(かまど)やトイレの改善を広める活動を始めたのよね。アフリカの竃って、地べたの低いところにあるから、女性にはすごく負担だし、衛生上の問題もあることが分かったの。といって、都会の台所なんて普及できないでしょ。それで、私の田舎で昔から使っている竃を広めることを思いついたの。これはすごく受け入れられた。でも、それも住民に参加してもらわないと続かないから、村のリーダーやスタッフの育成とかもやりました。そんなこんなで、気がついたら30年以上ケニアに住むことになっちゃった(笑)。でもね、この竃のおかげで、農村の女性や子どもの病気は減ったし、事故も減ったんですよ。ケニアの竃は事故が多かったから」ひとしきりケニアでの活動について淡々と語った後、彼女はこう言った。「ケニアの人たちは優しいから、何にも出来なくても、自分たちのために日本から来てくれた若者を受け入れてくれるんです。でもね、結果を出すって簡単なことじゃないし、時間のかかることよね。それを辛抱強く続けられるかどうか、ということだと思いますよ。それと、日本はこれから大変な時代を迎えるんですよ。少子高齢化。私は岩手の出身だけれど、日本の山村はものすごい勢いで過疎化しているでしょう。日本の若い人がアフリカを助けるというのもいいけれど、まずは自分の故郷をしっかり支えることも大切なんじゃないかしら」
私は、婦人の滔々とした語りにすっかり惹き込まれて、聞き入っていた。気がつけば、飛行機はドバイに間もなく到着するところだった。
飛行機が無事空港に降り立ち、ランウェイを滑走し始めると、彼女は笑いながら言った。「この話はここだけ(笑)。いろいろ言ってごめんなさいね。私は、こういう者です」そう言うと、名刺を渡された。差し出された名刺には、「NGO法人『少年ケニヤの友』副理事長 岸田袈裟』」とあった。私は、全身に鳥肌が立つのを覚えた。この2時間、私に語りかけてくれた女性は、あの岸田袈裟さんだったのか! 慌てて振り返ると、彼女の姿はもう通路の彼方にあった。
ウィキペディアをはじめ、ネットで検索すれば、彼女の業績については多く紹介されているので、ここでの説明は割愛させていただく。伴侶であり、ナイロビで宝石商を営む岸田信高氏や仲間と立ち上げたNGO「少年ケニヤの友」の活動についても、「ケニアにかけた虹の橋/少年ケニヤの友」(春風社、2016)に詳しく紹介されているので、関心のある方はご一読をおすすめする。
岸田さんは、その後病を得て、2010年2月に惜しまれつつ、故郷の岩手で亡くなられた。あの、ドバイに向かう機中で、私のような行きがかりのJICA職員に岸田さんが滔々と語られた中には、国際協力を志す若い方々にとって大きな示唆があったと思う。
途上国に寄り添い「生活」から発想し、知識や技術を応用する力、社会課題に広く関心を持つことの重要性、そして結果を出すこととそのための専門技術や経験の必要性、結果を出すために粘り強く活動すること…
国際協力を志す皆さんに先人からの熱い思いを引き継ぎたいと思い、この拙文を書かせていただいた。何かしらの参考になれば、望外の喜びである。
JICA OB
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