コラム 地球規模で生きる人
白川 優子(しらかわ・ゆうこ)さん(国境なき医師団(MSF)手術室看護師)
「29歳、語学の壁を乗り越えるためオーストラリアへ!」
海外で命の危機に直面している人々のもとに駆け付け、その命を救うために奮闘する人たちを追ったドキュメンタリー番組。テレビにかじりついて見ていたという7歳の少女の心に、“国境なき医師団”という名前がしっかりと刻み込まれました。それから約30年後、看護師として成長を遂げた彼女は、憧れだった国境なき医師団の一員に。シリア、イエメン、アフガニスタンなどの紛争地を中心に、11年間で18回の海外派遣活動に参加しました。連載第2回は、看護学校での思い出と病院勤務時代の経験、そしてオーストラリアへの留学を経て、国境なき医師団(MSF)を目指すまでのストーリーをご紹介します!
あこがれの看護師へ、一直線!
高校卒業後、定時制の看護学校への入学を決めた白川さん。提携先の病院で働きながら、看護師を目指すことになったよ。
- 勉強と仕事の両立は、かなり大変だったんじゃない?
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うん、忙しかった!看護学校の4年間はずっと、起きている時間の半分は勉強、半分は看護助手として病院勤務。わずかながらお給料も出ていたけど、そのお金を遊びに使う時間はなかったな。「高校生のときしっかり遊んでおいてよかったー!」って、心底思ったよ(笑)。
でもね、すごく楽しい4年間でもあったんだ。大変だったけど、同じ夢を持つクラスメイトと一緒に過ごす時間はとても充実していて。「今日はこういう患者さんがいて、こんなケアをしたよ」なんて、毎日報告し合ってね。早くあこがれの看護師になりたくて、みんなキラキラしてたよ。
- 看護師という仕事の、どんなところに惹かれたの?
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仕事に奮闘する先輩たちの姿が、とにかく輝いて見えていたんだ。もちろん、きれいな仕事ばかりじゃないけれど、汚れたシーツをてきぱきと片付け、患者さんと明るく接して、緊急時も慌てず、冷静に対応する。そういう姿がすごくかっこよかった。「なんてすばらしい仕事なんだろう」って。「4年後には、私もこういう看護師になれるんだ!」と思ったら、ワクワクしたよ。看護助手の仕事もすごくやりがいがあった。学生だから、まだ看護師として医療に関わる仕事はできないんだけど、身体をきれいにしたり、歯を磨いてあげたり、ご飯を食べさせたりしながら、患者さんと関わっていくことが楽しくて仕方がなかった。「この仕事は、私の天職だ!」と思ったよ。
- やめたいって思ったことはない?
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やめたいと思ったことは一度もないよ。とにかく「看護師になる!」としか考えてなかったから。ただ一方で、商業高校時代のクラスメイトはもう就職していて、それはそれは華やかな生活を送ってたんだ。当時はバブル真っ盛りだったから景気も良くて、仕事が終わってから遊びに行ったり、スキーをしたり、ドライブに行ったりしててね。仲良しだった子が、「優子も一緒に行こうよ」って誘ってくれるけど、私は仕事と勉強があったから行けなかった。それは正直、ちょっと寂しかったかな。でも看護師という道を進むことに、まったく後悔はなかったよ。
- 看護学校を卒業してからは、どういう進路に進んだの?
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最初の就職先は、地元の外科専門病院だった。そこは、患者さんにとことん寄り添うことをモットーにしていて、看護師としてのマインドや患者さんとの接し方など、多くのことを学んだよ。来てくれた患者さんは絶対に断らないし、専門外なら適した病院を紹介する。痛みのある患者さんがわざわざ来院しなくてもいいように訪問診療の部門があり、手を尽くしたけれど回復がむずかしい患者さんのための緩和ケア(*)病棟もあった。責任をもって、患者さんをしっかり診るというこの病院での経験は、私の看護人生に大きな影響を与えたし、その後の国境なき医師団(Médecins Sans Frontières :以下、MSF)での活動の礎にもなったよ。
(*)苦痛をやわらげることを目的に行われる医療的ケア。
1999年、国境なき医師団がノーベル平和賞を受賞したことがきっかけに
- 本格的に、MSFを目指そうと思ったきっかけは?
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きっかけは、1999年にMSFがノーベル平和賞を受賞したことだった。そのニュースを目にしたとき、「もしかして私もMSFに参加できるかも」ってはじめて意識したんだ。幼少期からあこがれてはいたけど、ずっと自分には届かない、遠い世界の活動だと思ってた。でも、そのときの私は看護師3年目で「私にもチャンスがあるんだ」と気がついたら、心が大きく揺さぶられたんだ。
それでMSFの説明会に参加したんだけど、現場ではかなり高い英語力(またはフランス語)が求められることを知って、愕然としたんだ…。ここまで読んでもらえば分かると思うけど(笑)、私はまったくといっていいほど英語の勉強をしてこなかったから「本気でMSFを目指すなら、本腰入れて英語をやらなきゃだめなんだ!」と思い知らされて。そして、まずは今いる場所から変えることにしたんだ。看護師としての幅を広げるために外科以外の領域も経験しておきたかったし、産婦人科の病院へ転職したんだ。
その産婦人科での経験も、MSFで大いに活かすことができたんだ。というのも、MSFの現場では、「こんなに赤ちゃんが生まれるの?!」と驚くほど、外科のチームであっても分娩に携わる機会が多かったんだ。特に、紛争地のような現場は医療体制が崩壊しているから、いろいろな患者さんがやってくる。その中で、絶対に見過ごせないのが妊婦さん。普通分娩だけでなく、帝王切開手術が必要なケースもすごく多い。生まれたての赤ちゃんの蘇生を行わなければならないときもある。私は、産婦人科で帝王切開も新生児の蘇生もたくさん経験してきたから、現場でかなり役に立ったよ。
- 苦手な英語は、どうやって克服したの?
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英語の壁は、独学では太刀打ちできなかったから、最初は駅前の英会話教室に通っていたの。それなりに楽しく通えたし、ある程度までは会話できるようになったんだけど、MSFの現場で通用するレベルにはほど遠くてね。英会話学校の職員さんから「白川さんは、何を目標にしているの?」と聞かれて、「国境なき医師団です!」って伝えたら顔色を変えて、「それなら…あと2年はかかるかもしれないね…」って言われたの。「ええっ?そうなの!?」と私もびっくり。「今すぐMSFに行きたいのに。このままじゃダメなんだ」って。それで、日本を離れて海外で英語を学ぶ決断をすることになったんだ。
オーストラリアからの再スタート
- それで、オーストラリアに行くことにしたんだね。
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そうなんだ。オーストラリアでの目的は、完全に一つ。“国境なき医師団に行くための英語力をつける”こと。そのために、まずはオーストラリアの語学学校に通い、IELTS(アイエルツ)(*)で目標のスコアを取って、現地の大学で看護の勉強をする、というシナリオを立てたんだ。「なぜ今さらオーストラリアで看護の勉強?」と思われるかもしれないけど、海外という環境でもう一度、医療や看護を学ぶことが私にとって重要だった。そうすれば、医療現場で使われる英語を身に付けることができると考えたんだ。
(*)海外留学や研修のために英語力を証明するテスト。
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そして、その通りになった。向こうに行くと英語力はぐんと伸びた。無事にオーストラリアン・カソリック大学へ入れることになり、看護の勉強をスタート。クラスメイトは、英語が得意じゃない私に、とても親切にしてくれたんだ。「ユウコ、ちゃんと理解できてる?大丈夫?」って声かけてくれたり、孤立しがちなときに「うちのグループにおいでよ」と誘ってくれたりして、とてもうれしかった。あと、私のような留学生は、テスト時に辞書の持ち込み可とされていて、それもありがたかった。社会全体が、ハンディキャップを持つ人にすごく優しい仕組みになっているんだなと感じたよ。そうじゃなければ、もっと苦労したかもしれないね。
- 大学には、何年間いたの?
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2年間だよ。卒業後はクリニックで1年働いて、そのあとロイヤル・メルボルン病院に転職した。この病院には、MSFに入る直前の2010年まで4年間お世話になった。その頃は、まだ英語にコンプレックスがあったから、電話に出られなかったり、緊急時の早口についていけなかったりして、「まわりのみんなに申し訳ないな」と思う場面も多々あった。でも、同僚は「ユウコは7年間日本で看護師をやってきた先輩だ」と言ってくれて、いろいろな場面で助けてくれた。「この4年間で受けた愛を、ぜんぶ世界にお返ししたい!」と思うくらい、今でもとても感謝してるよ。
そして、念願のMSFへ
- それでも、やっぱりMSFに行くことにしたんだね。
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うん。すごく居心地は良かったし、正直、「このままオーストラリアで永住したいな…」と思うこともあった。仕事もあるし、仲間もいるし、将来安泰だよね、って。だけど、「このままでいいの?」というモヤモヤがずっと拭えなかった。高校の時に、みんながどんどん進路を決めていく中で感じたあの心のざわつきが、また蘇ってきたんだ。それで、「ああ、私はやっぱりMSFに行きたい。人道支援がしたいんだ」って改めて思ったんだ。オーストラリアの生活が楽しくて、心にふたをしていたけれど、正直になってみると気持ちは晴れやかだった。「MSFだ。私はそのために来たんじゃないか」って。そして、大好きなロイヤル・メルボルン病院を去ることに決めた。頭で考えたのではなく、心の声に従うことにしたんだ。
オーストラリアで語学の壁を克服し、さまざまな経験を積んだ白川さん。次回は、ついにMSFへ。白川さんがMSFの活動で感じたことや、これからやってみたいこと、ルーキーズ世代のみんなへ伝えたいことなどを紹介するよ。
プロフィール
白川 優子(しらかわ・ゆうこ)さん(国境なき医師団(MSF)手術室看護師)
7歳の時にテレビで観た「国境なき医師団」に感銘を受ける。高校卒業後、4年制(当時)の坂戸鶴ヶ島医師会立看護専門学校に入学。卒業後は埼玉県内の病院で外科、手術室、産婦人科を中心に約7年間看護師として勤務。2003年にオーストラリアに渡り、2006年にオーストラリアン・カソリック大学看護学部を卒業。その後約4年間、メルボルンの医療機関で外科や手術室を中心に看護師として勤務。2010年、「国境なき医師団」に参加。2018年7月、著書『紛争地の看護師』(小学館刊)、2022年4月に『紛争地のポートレート』(集英社刊)を上梓。2020年10月より朝日新聞デジタルにて、『国境なき衣食住』を連載中。2018年10月より「国境なき医師団」日本のフィールド人事部にて海外派遣スタッフの採用業務に従事。1973年生まれ。埼玉県出身。