母の背中を見て育ち、自ら選んだロンドンで開発学を学ぶ道
国際協力の現場で活躍してきた母・萩原律子さんの姿を身近に見て育った萩原茉耶さん。
幼少期にはバングラデシュやパキスタンでの生活を経験し、帰国後は日本の公立高校へ進学。
現在は、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で開発学を学んでいます。
茉耶さんの国際協力への歩みは、母の背中を追うだけでなく、南アジアでの経験を通じて自ら選び取ったものでした。
茉耶さんは、なぜ母・律子さんと同じ「国際協力」の道を選んだのでしょうか。幼少期の途上国での生活から進路選択のきっかけまで、Vol.2では茉耶さん目線でのストーリーをお届けします。
(こちらもオススメ!)母律子さん視点の記事: 『出産後もキャリアは続けられる?子連れで4か国へ赴任したJICA職員に聞いてみた!』
多様な文化と出会う、ロンドンでの大学生活
――茉耶さんは現在、ロンドンで寮生活をされているそうですね。実家を離れての暮らしはいかがですか?
茉耶さん:
高校まではずっと家族と一緒だったので、全部自分でやらなきゃいけない大変さはありますけど、すごく楽しいです。
高校よりも自由というか、授業が少ない分、集中的に自分の取りたい授業を選べるのがいいなと感じています。
食事も含め、身の回りのことはすべて自分でしていますし、今年からはアルバイトも始めようかなと思っているところです。

SOASでの経済学クラスの写真
ちなみに、日本人の友達はよく「日本食が恋しい」と言っていますが、私はあまりそう感じたことがないんです。
ロンドンにはさまざまな文化的背景を持つ人が暮らしていて、世界中の料理を楽しめるので、日々新しい発見があり、飽きることがないんです。
大学では「ジャパンソサエティ」というサークルに入っていて、日本語学科の学生たちと日本文化についての交流イベントを企画し、充実した毎日を送っています。
パキスタンでの「不自由」が教えてくれた、外を一人で歩けることの尊さ

――バングラデシュに続き、特に多感な時期を過ごしたパキスタンでの生活は、どんな記憶として残っていますか?
茉耶さん:
半分ほどはコロナ禍と重なり、日本に一時帰国していた時期もありました。
それでも、パキスタン生活の後半、15歳(中学3年生)くらいになると現地の友達もたくさんできました。
ただ、一つ大変だったのは「外を一人で歩けないこと」でした。
どこに行くにも車が必要で、必ず誰かが一緒じゃないといけない状況だったんです。
――友達と気軽に待ち合わせをするのも、なかなか難しい環境だったのですね。
茉耶さん:
そうなんです。友達と遊ぶといっても、誰かの家に集まるか、誕生日会などで大人に送迎してもらいながら施設へ行くくらいでした。基本的には屋内で過ごすことが多かったですね。
なので、帰国して高校生になった時、一人で自由に街を出歩けるようになったのが本当に嬉しかったです。
毎日顔を合わせるドライバーさんやシッターさんとはとても親しく、友達のような関係でした。
不自由に感じることもありましたが、周囲の方々に支えられ、とても楽しく過ごすことができました。
日本の公立高校でのカルチャーショックと、その先の発見
――高校で初めて日本の公立学校に入学されたわけですが、入学初日にはお母様に服装を止められたとか。
律子さん:
高校の入学初日にローリング・ストーンズのTシャツを着て行こうとしたんですが、私が「最初の日だけはやめた方がいいんじゃない?」と慌てて止めました。
茉耶さん:
そうだったっけ(笑)でも、通っていた学校は髪を染めている子もいるような自由な校風だったので、服装や見た目についてはすぐに馴染めました。

高校時代の教室の様子
――海外の学校との違いに戸惑うことはありましたか?
茉耶さん:
最初は少し戸惑いました。
特に、日本の部活動のように、一つの競技を継続して打ち込む文化にはとても驚きました。
インターナショナルスクールでは、シーズンごとに異なるスポーツに取り組むスタイルで、1年を通して同じ競技を続けることはほとんどなかったんです。
律子さん:
茉耶も妹も、遠征が頻繁にあるような部活動のハードな活動スタイルにはなかなか馴染めず、結果的に2人とも運動部を続けることはありませんでしたね。

茉耶さん:
あとは、日本ではみんなと同じように行動することが自然に求められる場面も多いと思います。
ただ、それも「どっちが良い・悪い」ではなくて、単純に文化の違いなんだなと思っています。
実際に「一緒にトイレに行く」というようなグループ行動自体は、海外のインターナショナルスクールにもありました。
逆に、日本の良さだと感じたのは、部活も含めて一つのことに対して一生懸命やる姿勢ですね。
そこは海外の学校ではあまり経験しなかった文化なので、素直にすごいなと思いました。
“日本語翻訳係”だった母と、身近に見てきた国際協力の現場
――言語の面での苦労はありませんでしたか?
茉耶さん:
日本の流行り言葉やスラングが、勉強してきた日本語と全く違っていて、慣れるまでは大変でしたね。
律子さん:
茉耶は家で学校の悩みをあまり話さないタイプでしたし、私も主体性を尊重して、必要以上に聞き出さないようにしていました。そのため、当時は悩みを抱えていたことにほとんど気づけませんでした。
英語のほうが理解しやすいようだったので、家では「日本語では、こう言うんだよ」と伝えていました。
私はいわば、家の中の“日本語翻訳係”のような存在でしたね。

2014年1月 バングラデシュの自宅アパートの前での写真
茉耶さん:
今でも妹と話すときは、自然と英語になることが多いですね。
英語のほうが気負わずに話せますし、同じ時期に同じ国で生活していた妹は、悩みや経験を一番共有できる存在です。
――お母様の仕事について、茉耶さんは当時どのように感じていましたか?
茉耶さん:
小さい頃は、母が具体的にどんな仕事をしているのかはよく分かっていませんでした。
ただ、母の職場に行くこともありましたし、仕事関係の方々も身近にいる環境だったので、国際協力は自然と身近な存在だったように思います。
本格的に意識するようになったのは、進路について考え始めた高校生の頃でした。

律子さん:
茉耶が高校の歴史の授業でインドやパキスタンの分離独立や、国連の役割についてのエッセイを書いているのを見た時、「おお、そっちの分野に興味があるんだね!」と内心うれしく思いながら応援していました。
――お母様の背中を見て育ったことが、今の進路に影響しているのでしょうか?
茉耶さん:
もちろん母の影響もあります。でも、それ以上に南アジアで間近に貧困の現場を見てきたという、自分自身の体験が大きかったです。
ロンドンへ来てからは、多様なバックグラウンドを持つ移民の人たちで街が成り立っているのを見て、「移民・難民問題」に興味を持つようになりました。
これから学んでいくなかで、何か専門的なことを突き詰めていけたらいいなと思っています。

ジャパンソサエティでの上映会の様子
律子さん:
イギリスでの開発学は「デコロナイゼーション(脱植民地化)」、つまり植民地支配からの脱却という視点から始まるんです。
そこから体系立てて学べる環境は、本当に羨ましいです。私も授業を受けたいくらいです。
今いる場所から、まずは小さな一歩を
――最後に、国際協力に関わりたいと思っている同世代の読者へ、メッセージをお願いします。
茉耶さん:
私が国際協力に直接関わるようになった最初のきっかけは、高校生の時に参加した「シャプラニール」というNGOでのボランティアでした。
物品整理のお手伝いから始まりましたが、私にとって大きな一歩でした。
特別な経験がなくても、まずは自分が興味のあること、できることから始めてみるのが大事だと思います。

――これからの予定や、将来への展望を教えてください。
茉耶さん:
大学の夏休みが4ヶ月あるので、いろいろなインターンシップに挑戦してみたいです。
父からは「JICA海外協力隊に行ってみたら」と勧められているのですが、まず学校のことを頑張りながら、インターンを経験してみたいです。
――協力隊も学生のうちから挑戦している人がいると聞きますし、これからいろいろな経験ができるのが楽しみですね。茉耶さんの話を聞いて、律子さんはどう感じていますか?
律子さん:
ボランティアから始まり、大学を選んで、次はインターン。
ちゃんと自分で考えて動いているんだなと思いました。親としては、それが一番嬉しいんですよね。
国際協力の道は長いので、焦らず、でも好奇心だけは手放さないでほしいなと思います。

編集者より
取材を通じて印象的だったのは、茉耶さんが母・律子さんと同じ道を歩んでいるように見えながらも、その一歩一歩を自分自身の意思で選び取ってきたことでした。
幼い頃から国際協力を身近に感じる環境で育ちながらも、ボランティアに参加し、大学を選び、海外へ渡り、次の挑戦へと進む――。
その姿は、「親と同じ道」ではなく、「自分で見つけた道」を歩んでいるように映りました。
そして、その挑戦を少し離れたところから温かく見守る律子さんの姿もまた印象的でした。
親子でありながら、それぞれが自分の人生を主体的に歩んでいる。
そんな関係性こそ、この取材で感じた大きな魅力だったように思います。
スタートラインは、誰でも同じ。この記事を読んでいるあなたも、小さな一歩を踏み出しているはずです。
あなたにしかできない国際協力への「次の一歩」を、ぜひPARTNERで見つけてみませんか?
☆早速あなたに合った求人を探してみよう
|
親子で紡ぐ国際協力 Vol.1はこちら
☆子連れで4か国へ赴任したJICA職員に聞いてみた!