ROOKIESコラムで取り上げた“地球規模で生きる人”たちは
「何かしたい」そんな強い想いに突き動かされ、
世界で起きている問題に、それぞれのやり方で挑戦を続けています。
これまで何を考え、どんな経験を経て、今の場所にたどり着いたのでしょうか。
そして、どんな未来を描こうとしているのでしょうか。
“地球規模で生きる人”たちは、
どんな「過去」を過ごしてきたのだろう?
子どもの頃のこと、世界に目を向けるようになったきっかけ、
語学力のことを聞いてみたよ!
子どもの頃は、漫画と野球が大好きな普通の少年だった。ロケットをつくりたいとか、お医者さんになりたいとか、たくさんの夢があった。海外に興味を持ったきっかけも、大好きだった漫画の影響が大きかったと思う。信頼できる仲間と、世界中の海をまわって冒険するストーリー。その主人公のように「もっと遠くへ行きたい」、「もっと広い世界を見たい」と思ったんだ。その気持ちが、僕の原点かもしれないね。
私は繊維の街として有名な、愛知県一宮市で育ったんだ。母がファッションデザイナー、父が繊維関係の商社で働いていたから、物心ついた時からファッションの世界に憧れていたの。自分でアクセサリーや服を手づくりするのが好きで、母に安い布を買ってもらっては、ミシンで縫ったりしていたね。海や川へ遊びに行くと、穴のあいた貝殻を探してネックレスにしたり、きれいな石を見つけて指輪をつくったり。遊びの中で自然にやってきたことだけど、今の仕事の原点になっていると思うよ。
私が生まれたのは、奈良県五條市。よくある地方の田舎町で、山に囲まれた自然がいっぱいの場所。でも、私は外で遊ぶより家の中にいるのが好きで、絵を描いたり、絵本を読んだりして過ごしていたな。普通のサラリーマン家庭だったけど、父も母もファッションが好きで、家には服がたくさんあったんだ。小学生くらいになると、両親が私の服をスタイリングしたり、私のコーディネートにダメ出ししたり……(笑)そういう環境だったから、私にとっての服は、ただ身に着けるものじゃなく、いろいろな楽しみ方ができる、わくわくさせてくれる存在だったよ。
小学2年生から5年間、父の仕事の関係でシンガポールで暮らしていたんだ。ある日、家族でカンボジアのアンコールワットを観光していた時、自分と同じ歳くらいの子どもが寄ってきたんだよね。片手、片足がなく、お金をくださいと。かわいそうだと思ってお金あげようとした時に、父に止められたんだ。何も分かっていないおまえがあげるなと。その時は、何が分かっていないかさえ分かってなかった。
それからしばらくして、あの子は地雷で手足を失ったということを知ったんだ。しかも、同情を得るために子供の手足を親が切り落とすこともある、なんてことを知ったのもこの時。この出来事をきっかけに、貧困問題をはじめとする世界の現状についてテレビ番組を見たり、人に聞いたり、本で調べながら少しずつ知識を深めていったよ。自分と何が違うのかを考えるようになったかな。普通だったら聞き流すようなことも、僕の中に立った興味のアンテナがキャッチするようになったんだと思う。
高校2年生のとき、シエラレオネの内戦で孤児になってしまった少年「アラジ君」を追ったドキュメンタリー番組を観たの。当時8歳のアラジ君は、両親を目の前で殺されるというむごい体験をしていた。内戦が終わり、友だちはみんな学校に戻れたけど、アラジ君は戻れなかった。なぜなら、弟たちを養うためにガラクタを集めてその日の生活に必要なお金を稼がなければならないから。そんな状況の中、アラジ君は「何が欲しい?」と聞かれると、「勉強したい」と言ったんだ。勉強さえすれば、今の状況を変えられると信じていて、その言葉に私はすごく衝撃を受けた。それまで世界でそんなことが起きているなんて1ミリも考えたことがなかったし、自分はとても大変な日常を送っていると思っていたから。でも、戦争がなく平和に暮らせて、両親がいて、毎日学校に行ける…この生活の方が特別だ、ということがはっきり分かったんだ。同時に、勉強がしたいというアラジ君に何もしない世界に、日本に、激しい憤りを感じた。そして、「私はいつかシエラレオネに行って働こう!」と考えるようになったんだ。
高校生のときの留学先で、とてもショックな出来事に遭遇したこと。それは、アジア人に対する人種差別だったの。私がただ道を歩いているだけで、差別的な言葉を投げつけられることもあって、辛かった。当時その国は、ちょうど移民が増えていた時期で、アジアから人が大量に流入していた時期だったんだ。そうした変化への拒否反応もあったと思う。でも耐えられなくて、3カ月もたたずに日本に帰ってくることになってしまったの。
それと、日本人としてのアイデンティティをしきりに問われることにも困惑した。過去の戦争やさまざまなニュースについて、「日本人としてどう思うの?」と、意見を求められるけど、そのころの私は、まだ自分が日本人であるという感覚が薄かったから、「そんなこと分からないよ!」って戸惑って…。人種差別やそうした問いかけによって、自分が日本人であることを急激に自覚させられて、コンプレックスを抱えることになって、大好きだった海外も怖くなってしまったんだ。
でも、この留学をきっかけに、「人はなぜ国籍や人種で差別をするのだろう?」と考えるようにもなった。それまでは、恵まれた環境で何も考えずに楽しく生きてきた私だったけど、世界で起きている社会問題にアンテナを張るようになって、時には腹立たしさを感じるようになったんだ。
自分の思いは言葉にしないと伝わらないから、最低限の語学力は必要だ。だけど、最初からペラペラを目指さなくてもいいと思う。それより、まずは世界に出てみることが大切。現地で出会った人のことをもっと知りたいと思えば、語学を学ぶモチベーションになる。
実際、僕の場合、「YESかNOか、好きか嫌いかくらいがわかれば、あとはボディランゲージで何とかなる!」って思って海外に飛び出したんだ(笑)。今も、英語とスワヒリ語を勉強しているけど、そんなに上手じゃない。でも、思いは伝えられていると思うよ。
英語はもちろんできたほうがいい。でも、英語ができないからといって何かをあきらめる必要はない。実際、僕は就職活動の時点で英検4級、TOEIC350点だったけど外資系金融会社に入れたのだから(笑)。語学力がなくても、考えていることを伝えようと努力をしたら必ず伝えられるんだ。自分が言いたいことを事前にちゃんと準備していけばいいからね。それに、仕事をしながら育むことだってできるよ。僕は今でも語学がそんなにできるわけではないけど、アフリカの人とお互いを理解しあえていると感じる。一緒に楽しむこと、悲しむこと、喜ぶこと、そういう感情には言葉はいらないんじゃないかな。
僕自身、大学時代バックパックを始めた当初は、ほとんど英語はできなかったよ。僕が本気で英語を勉強したのは、協力隊でシリアに行ってから。日常的にシリアの人たちと接していたから、自然とアラビア語はできるようになっていったんだ。それでも、ビジネスレベルには遠かったから、シリアの人たちからは「さすがに英語はできるでしょ?」と言われてしまった。これで英語力もたいしたことないと知られたら信用を失ってしまう、と焦ってそこから勉強したんだ。語学学校に通ったり、家庭教師を頼んだり…短期間だけど必死に勉強して、なんとかやり取りができるまでになった。そんな僕の考えだけど…まずは、やりたいことを見つけて一歩を踏み出してみることが何より大事だと思う。語学力を身につけるのは、たぶんその後でも遅くない。
“地球規模で生きる人”たちは、
どんな「現在」を過ごしているのだろう?
今の仕事にチャレンジしようと思ったきっかけや、
仕事のやりがい、現地の人たちの変化を感じた
エピソードを聞いてみたよ!
20歳のとき、国際NGO(国境を越えて活動する非政府組織のこと)の植林ワークキャンプに参加して、タンザニアへ行った。これが僕のアフリカの原体験。「勉強したことを教えてあげよう」なんて気持ちだったのだけど、現地では逆に教えてもらうことばかり。本では学べない大切なことを学べた。何より良かったのは、尊敬できる同じ年の青年に出会えたこと。彼は超頭がよくて村の人たちにお金を出してもらって大学に通っていたんだ。そんな彼が僕に「いつか自分で会社を作り、村の人たちと何か新しいことをやりたいんだ。お前も一緒にやるか?」って話してくれたのが、衝撃的だった。だって、それまでの僕は、アフリカの人を支援するというアイデアしかなかったから。「アフリカの人と一緒に、現地の人の役に立つことを仕事にする。」これを実現するにはどうしたらいいか、ずっと考え続けることになる。
アフリカへの卒業旅行から帰ってすぐに始めたのが、スラム街の駆け込み寺である施設への送金。その後、組織として公式にサポートしたいという気持ちが強くなり、社会人3年目にNPO法人*「Doooooooo」をつくった。
東日本大震災が起こったときには、NPO法人の活動のひとつとして、毎週末被災地でいろいろなプロジェクトを行ったんだ。そのとき、「やっぱり自分は笑いをつくっていくことが好き。人に喜んでもらうことを仕事にしたい」という思いが明確になった。
徐々にやりたいことが具体化してきて、とうとう7年間働いた会社を辞めたんだ。アフリカの人を継続して雇用できるビジネスを立ち上げ、アパレルブランド「CLOUDY」(曇りの日という意味)をつくったんだ。この名前には、ネガティブなイメージの「曇りの日」を、「晴れの日」に変えられる製品を作っていこう、という願いを込めているんだよ。
*NPO法人…非営利団体のこと。
南インドの鉱山での過酷な労働を目の当たりにしてから、「この現実を何とかしなければ」と考えるようになった。そのためには、NGOやNPO、国連に行く道もあるだろうと考えて、卒業後は国連でインターンをしたんだ。でもだんだん「支援よりも、ビジネスの中で社会貢献がしたい」と考えるようになって…その方法を模索している頃に、ベトナムでファッションビジネスを展開している起業家たちに出会ったの。ベトナムの女性は手先が器用で、刺しゅうや細かい作業がとても上手い。起業家たちは、そんなベトナムの女性を下請けではなく、対等なビジネスパートナーとして力を合わせ、素敵なカバンや洋服を作っていた。関わる人みんながすごく楽しそうで、「これが私の目指すべき理想の姿だ」と思ったんだ。
今取り組んでいるのが、ラオス、ミャンマー、タイなどアジアの農家さんたちが丁寧に栽培したコーヒー豆の流通ルート開拓だよ。街で見かけるような焙煎された茶色い豆ではなく、焙煎前の生豆(グリーンビーン)を輸入して、ロースターさんや自家焙煎されるカフェなどに販売しているんだ。一方で付加価値をつけて販売するために、自分たちでも焙煎機を購入したよ。焙煎温度や時間によって変化する味や香りを焙煎担当のスタッフと一緒に何度も何度も試しながら、イメージするテイストを探しているところなんだ。
日本で飲まれているコーヒー豆って南米やアフリカ産のものが多く、アジアのコーヒーはまだまだ珍しい。「アジアでコーヒーが育つの?」と言う人もいるほど。でも試飲してもらって「美味しい!こんな豆がミャンマーにあるんだ!」と言われた時は、めちゃくちゃうれしい。もともとアジアのコーヒー農家さんって、頑張っているのに正当に評価されていないのがもったいないと思っていたから、僕が関わることでその価値に気づいてもらえて評価されるというのはうれしいね。
「留職」は、日本企業の若手人材と途上国をつなぐ企業向けプログラム。本来はありえない出会いをつくることで、新しい価値を生み出しているんだ。「留職」に行った若手人材が、途上国の現地で奮闘した経験を活かして、帰国後に社内で新規事業を成功させました、という喜びの声が届くことも多い。そういうエピソードを聞くと、最高にうれしい気持ちになると同時に、経営者としての手ごたえも感じるよ。これまで世の中になかった「留職」というアイデアを考えてその仕組みをつくり、ビジネスの世界に新しい驚きを与えることができたからね。
やりがいは常に感じているよ。ずっと好きだった服に携わる仕事ができて、私たちの服を気に入って買ってくださるお客さまがいて、その売上をインドの人たちに還元できている。時間はかかったけど、そういう循環をつくってこられたことがうれしい。仕事をしているという感覚はあまりなくて、毎日が楽しいよ。
イトバナシは新型コロナウイルスの流行をきっかけに、古民家をリノベーションしたお店を構えることになった。営業は月3日だけのマイペースなお店だけど、遠方からもお客さまが足を運んでくださるようになって、売上を伸ばすこともできた。無理のないやり方でもきちんと成長できていることに、喜びを感じているよ。
もう一つすごくうれしいのは、私たちの想いに共感して参加してくれるスタッフやお客さまが増えていること。インド刺繍の存在を知らなくても、私たちがその素晴らしさを伝えることで、興味を持ったり、ファンになってくださる方が多いんだ。特別なことをしなくても、心を込めて価値を伝えていけば、想いは届くんだ。最近そう感じることが増えてきて、本当に良かったと思っているよ。一番のやりがいは、それかもしれないね。
僕たちはもう10年活動をしているけれど、最初に支援した高校生はもう大学を卒業して、すでに社会のリーダーとなって活躍している。中には、「今度は僕らが恩返しをしていく番だ」と言って、e-Educationの仲間になって活動してくれている子もいるんだ。支援を受けていた子が成長し、支援をする側となって活動している姿を間近で見られるのは、僕らの大きな喜びになっているよ。
一番うれしいのは、シエラレオネの現地スタッフが、私たちと同じ方向を向いて仕事に取り組んでくれるようになったこと。もちろん、支援を通して笑顔が見られたときや、「ありがとう」といってもらえたときも、やりがいを感じるよ。でも、日本人とは、文化や習慣が全く違うシエラレオネのスタッフに、子どもたちの貧困や、教育の問題を一緒に何とかしたい!という気持ちは同じでも、私たちと同じように考えて仕事をしてもらうのは、すごく難しいことだった。だから、「私たちの気持ちが通じた!」と思えたときは、すごくうれしかったよ。
印象に残っているのは、インドの“サバイバー”からもらった感謝の手紙だよ。“サバイバー”というのは、過去に児童買春の被害に遭ったけれど、心身ともに回復し、自分の人生を歩み始めた女性たちのことで、尊敬の気持ちを込めて“サバイバー”と呼んでいるんだ。
かものはしプロジェクトでは、「リーダーシップネクスト事業」を通して、“サバイバー”自らが児童買春問題の解決に向けて動けるようにサポートしてきた。ある日、その彼女たちのリーダーが「かものはしのみなさんが応援し続けてくれたことで、活動することができています。本当に感謝しています」と、手紙に書き綴ってくれたんだ。現場からそういう声をもらえるのは、本当にうれしい。「この仕事をやっていて良かった」と心が温かくなった出来事だったよ。